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1969 55J 国連軍縮委員会への参加に際して

1969年7月3日

 日本は軍縮に対する態度を、いま世界のまえで問われようとしています。それは、日本の参加した拡大国連軍縮委員会が、三日、再開されるからですが、それだけではありません。

 原水爆の被害を現実に体験し、かつ平和憲法を保持する日本が、どのような発言をし、どのように振舞うかは、当然のことながら、国際的な関心事であろうからです。 最近の軍縮委員会は、軍備の縮小を討議するというよりも、軍備の管理について、話合うという感が全般に強いように思われます。しかも一方では、すでに全人類を殺戮してなお余りある核を保有するという大国の間で、大陸間弾道弾迎撃ミサイルや多弾頭ミサイルの開発を中心に核軍備の競争が新たに進行している実状です。まことに異常であり、危険な事態だと申さねばなりません。そしてこうした動きに軍縮委員会の内部には一種の無力感が漂っているとさえいわれます。とすれば、この無力感を一掃し、事態を軍縮への方向に推し進めることが、軍縮委員会の当面する最大の課題でなければなりますまい。いまの時期にあえて軍縮委員会に参加した日本は、最初の任務をここに求めるべきだと思います。

 無論、この道は決して容易なものではありませんし、また一つではないでしょう。が、何を措いても、軍縮委員会をその初志に立ち帰らせることが、どうしても必要です。

 一九五九年十一月二十日、国連総会は、全加盟国の共同決議で、全面完全軍縮への措置を「できるだけ短期間に」とりきめるよう要望しました。

 この決議は、米ソはもとより日本を含めた国連全加盟国による軍縮への厳粛な誓いであり、ひたすらな願いであり、軍縮委員会に対する強い要望でありました。この事実を、国連加盟国である全委員国が想起し、ここから再出発することを新たに決意せねばなりません。そして、この決意をうながす仕事に、日本はまず全力を傾けるべきです。世界の平和は、全面完全軍縮が実現したときに、はじめて確立するわけで、それまでは、だれもが核兵器の「ダモクレスの剣」の下で絶えざる脅威にさらされていなければなりません。

 軍縮委員会でとる日本政府代表の態度は、全世界の人々にょって注目されているのみならず、平和憲法を保持する日本国民によって最もきびしく間われているといってよいでしょう。

 国際世論と日本国民が投げかけるこの真剣な問いに、政府はまっこうから応えてほしいと思います。

1969年7月3日

世界平和アピール七人委員会

1969 54Ja 核兵器の撤去をふくむ沖縄の施政権の即時全面無条件返還を要望するアピール(要旨)

1969年2月9日

 沖縄の同胞は、今度の戦争で最大の犠牲となったにもかかわらず二十四年たった今なお、米軍の占領下におかれている。日本の領土に住む日本国民でありながら、日本国憲法の保護を受けていない。最近は、B52の駐留と事故などで、日常の生活と生命にさえ脅威を感じている。沖縄が日本の領土であることは、一九六二年三月十九日の故ケネディ大統領の声明や、サンフランシスコ講和条約でも明確にされている。政府は対米交渉でこの原則にそう解決をめざし、国会でも議決されるよう呼びかける。

(1969年2月9日付読売新聞)

1968 53J 北爆全面停止に際し民族自決主義を訴える

1968年11月1日

 アメリカはついに「北爆」の全面的停止を決定致しました。パリ会談開始以来すでに五月余になりますが、これでベトナム和平への第一関門がようやく突破できたことは喜びにたえません。事態をここまで推し進めるには、いろいろな力が働いたことでありましょうが、世界世論の強い圧力があったことも忘れてはならないと思います。更にアメリカが南ベトナム民族解放戦線の和平会談参加をみとめ、また北ベトナムが、南ベトナム政府の参加に同意したといわれる事実も、きわめて大きな意味をもちます。

 このような互譲こそが、ベトナム戦争そのものに全面的停止をもたらすうえで、最も必要だと考えるからであります。そのうえベトナムの場合は、朝鮮戦争の時のように、休戦だけでとどまってはならず、またとどまることを許さないものであります。したがって、ベトナム問題自体を解決しなければなりませんが、それには「ベトナムのことはベトナム人に」という大原則の実現がなによりも必要であるということをわれわれは重ねて主張致します。

1968年11月1日

世界平和アピール七人委員会

1968 51J ソ連・東欧四力国のチェコに対する武力侵入に抗議するアピール

1968年8月23日

 われわれは、この度のチェコスロバキアに対するソ連並びに東欧四力国の武力侵入は世界平和に対する重大な脅威と考えます。

 今回の事件の最も大きな問題は、独立国家の内政に対して軍事的な千渉がなされ、しかもその根底には大国主義のもつ重大な誤りがひそんでいることであります。民族がいずれも独立する権利を持っているように国家は、みな独自の道を進む当然の権利を持っており、これを外部からの武力によって押えつけることは、いかなる国にも許されません。またそれは一時的には可能に見えても長期的には、絶対に不可能であります。民族や国民の心はなにものによっても、しばることができないからであります。われわれは、これまでベトナムにおけるアメリカの行動に対して批判を続けてきましたが、この度のソ連の行動はそれにもまさる大国主義の誤りに陥っているといわねばなりません。大国は世界平和と人類の進歩に最もよく貢献できる立場にあり、これは大国のこの上ない栄誉でもあります。それだけに大国の責任は重く、大国主義の誤りを犯さないよう細心の注意を払わねばなりません。

 大国主義の最大の誤りは、世界世論を軽視し武力を過信し「力は正義」だという幻想をいだくことであります。この幻想はしばしば大国を世界世論のなかで孤立させ、きわめて重要な歴史の流れを見誤らせることになり、そして「正義は力」だという原則が確立するような世界に進んでいくのを妨げ、更に国際的な暴力が無軌道に横行する時代に逆行させかねません。

 これは世界にとって恐るべき事態でありますし、また当然軍備競争と核拡散とをうながすことにもなります。われわれは、ソ連並びに東欧四力国が速やかに撤兵し、チェコスロバキアとの関係を調整する話合いにはいることを強く要望致します。

1968年8月23日

世界平和アピール七人委員会

1968 50J フランスの水爆実験に反対するアピール

1968年7月4日

 フランスは近く太平洋水域で初の水爆実験をおこなう予定と伝えられています。これによって引き起こされる新たな国際的衝撃と緊張の激化、放射能害の累積は、私どもにとって耐えがたいものです。

 ぜひ思いとどまってほしいのです。

 ことにフランスはいま、首都パリで続けられているベトナム和平の話し合いを成功させるため、よい環境づくりにあらゆる努力を傾けているといわれ、平和への熱意が高く評価されている時です。今回の核爆発実験計画は、これとまったく矛盾する感をあたえるものです。核兵器の実験を一回するごとに、その国の国際的な道義の地位はそれだけ低下しましょう。

 フランスの名誉のためにも、この実験をとりやめるよう、重ねて鎮く要望せざるをえません。

1968年7月4日

世界平和アピール七人委員会

シャルル・ドゴール仏大統領殿

1968 49J 北爆停止に際しベトナム和平の実現を訴える

1968年4月4日

 ベトナム和平の可能性をさぐる公式な話し合いが、アメリカ、北ベトナム両国政府間でおこなわれることになりました。この動きは、私どもが最も待ち望んだものの一つであります。

 無論、今回の話し合いは休戦そのものの交渉ではありません。しかしその大前提となる北爆の完全停止を、どのようにして確保するかという問題をとりあげるのだといわれております。

 つまり今回の話し合いが成功すれば、平和交渉への扉がようやくひらかれ、これが失敗すればベトナムの国民とそこで戦う人々はとめどもない殺りくと悲惨への道をさまよわねばならないのであります。また世界にとっても、それはかぎりない危険の深まりを意味します。

 アメリカと北ベトナムのこんどの接触は、ベトナム戦争以来はじめてともいえるほど両国の和平気運が一致したときになされるのであり、その点で最大のチャンスをひそめるものであります。このチャンスはぜひ生かさねばなりません。そして真の意味での北爆の停止がベトナム和平のために絶対必要であり、それは、今日すでに国際的な常識とさえなっています。

 両国代表による実りある話し合いを、世界平和の名によって強く願わずにはいられません。

1968年4月4日

世界平和アピール七人委員会

1967 48J 「核アレルギー・核の傘」論を排するアピール

1967年12月29日

 原子爆弾の出現以来、四半世紀に近い歳月が経過したが、その間に核兵器保有国は五つになり、その中でも特に米ソ両国の核兵器体系は多様化と巨大化の一途をたどってきた。最近「核の傘におおわれた世界」という表現がしばしば使われるようになったが、そこには、今後の人類は核の傘の下で暮らさねばならぬという宿命論的なあきらめさえ感じられる。そう思いこむのは人類の平和への努力の意義と有効性を否定するものである。核の傘という言葉自体がおかしい。傘は雨を防ぐためのものであるが、核の傘といわれるものは、それとは全く反対に人類の頭の上に火の雨を降らす源となるものである。それどころか核の傘自身がどんどん巨大化しつつある怪物で、このまま成長してゆけば結局人類を呑みつくしてしまうであろう。しかし、それは自然現象ではない。人間がそれをつくり出し、それを成長させてきたのである。従って、それは人間の力によって、消滅させることができるはずのものである。

 あるいはまた「核アレルギー」という言葉も最近よく使われるが、元来アレルギーとは特に危険でもない物質に対して、異常に敏感な特異体質に関係していわれることである。ところが核兵器は危険きわまりないものである。これを危険だと思うのが正常な人間であって、危険に対して不感症になってしまう方が異常なのである。

 日本人もふくめて世界的に核の傘に対する宿命論者、核兵器不感症患者が増加してゆくならば、人類の前途は暗黒である。現在までの日本人の大多数は原爆の経験と平和憲法をよりどころとして、人類の存続と世界の平和のために貢献しようとしてきた。私たち日本人は核兵器を廃絶してしまわぬ限り各国民の安全と繁栄は訪れないという自明の真理を再確認し、日本が世界を核時代の次に来たるべき、よりよき時代へ導くリーダーとしての役割を果たすために、今後も一層努力したいものである。

1967年12月29日

世界平和アピール七人委員会

1967 47J 原爆被災者の人口調査に関する要望書

1967年12月27日

 広島・長崎に原爆が投下されたとき、何人の被爆者がいたかについては、一瞬にしてすべての行政機関が破壊されたという事情もあって、全く調査がなされて居りません。また、被爆直後に公務や救援のため入市し、第二次放射能による災害をうけたものや、胎内で被災したものの数も、全然不明のまま、今日に到っております。

 生存者・死没者をふくめて、原爆被災者の総人口が何人であったかということは、原爆症についての科学的研究を行う際の分母であり、被災の全貌をつかむための基礎数字となるため、すべての関係者から正確な調査が要望されています。

 しかし、この数字を明らかにするためには、来たる昭和四十五年の国勢調査の付帯調査として実施する以外には不可能であります。しかも被災後、二十五年目にあたるこの時期を失するならば、被災者は老齢化し、また死亡者も多くなって、正確な調査を行うことはできません。広島の例でいえば第二総軍・船舶輸送司令部(暁部隊)・中国総監府および中央官庁の出先機関や大会社の出張所が集中していたため、被災者は全国に散在しており、被災者の側にその事実をかくすという傾向も出ているので、国勢調査以外の方法で、実数をつかむことはできないと考えられます。

 以上の理由から来たる昭和四十五年の国勢調査においては、法律の一部改正により、原爆被災総人口の調査を、国勢調査付帯調査として実施するよう、重ねて要望いたします。

1967年12月27日

中国新聞社常務取締役

広島大学教授

日本YWCA名誉会長 世界平和アピール七人委員

法政大学教授 世界平和アピール七人委員会事務局長

東大総長

中国新聞社論説委員

作家 世界平和アピール七人委員

評論家

前東京大学総長 世界平和アピール七人委員

広島原爆病院長

広島女学院大学教授

前日本女子大学長 世界平和アピール七人委員

朝日新聞社社友

前広島市長

全日本婦人団体連合会名誉会長 世界平和アピール七人委員

京都大学教授 世界平和アピール七人委員

広島市長

糸川 成 辰

今堀 誠 二

植村   環

内村 尚 三

大河 内一夫

金井 利 博

川端 康 成

小幡   操

茅誠   司

重藤 文 夫

庄野 直 美

上代 た の

田中 慎次郎

浜井 信 三

平塚 らいてう

湯川 秀 樹

山田 節 男 

内閣総理大臣 佐藤栄作殿

1967 46J 原爆被害者援護法制定に関する要望書

1967年12月14日

 私たちは、これまで再度にわたり、原爆被害者援護法の制定を政府に要望してまいりました。

 先般十一月一日、「原爆被爆者実態調査」の結果が発表され、政府がきたる通常国会において被爆者対策を提案する方向で検討されていることを、私たちはよろこびとしています。

 すでに被爆者援護については、広島・長崎の県市首長および議長から、「原爆被爆者特別措置法」が、また被爆者の団体からも「原爆被害者援護法」が、それぞれ政府に対して要請されています。

 政府は、この際これらの切実な要求を汲まれ、抜本的な対策を昭和四十三年度において講じられるよう要望致します。

1967年12月14日

井伏 鱒 二
植村   環
内山 尚 三
江口 朴 郎
大江 健三郎
茅誠   司
川端 康 成
上代 た の
都留 重 人
中野 好 夫
日高 六 郎
平塚 らいてう
丸山 真 男
吉野 源三郎
蝋山 政 道