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1968 50J フランスの水爆実験に反対するアピール

1968年7月4日

 フランスは近く太平洋水域で初の水爆実験をおこなう予定と伝えられています。これによって引き起こされる新たな国際的衝撃と緊張の激化、放射能害の累積は、私どもにとって耐えがたいものです。

 ぜひ思いとどまってほしいのです。

 ことにフランスはいま、首都パリで続けられているベトナム和平の話し合いを成功させるため、よい環境づくりにあらゆる努力を傾けているといわれ、平和への熱意が高く評価されている時です。今回の核爆発実験計画は、これとまったく矛盾する感をあたえるものです。核兵器の実験を一回するごとに、その国の国際的な道義の地位はそれだけ低下しましょう。

 フランスの名誉のためにも、この実験をとりやめるよう、重ねて鎮く要望せざるをえません。

1968年7月4日

世界平和アピール七人委員会

シャルル・ドゴール仏大統領殿

1968 49J 北爆停止に際しベトナム和平の実現を訴える

1968年4月4日

 ベトナム和平の可能性をさぐる公式な話し合いが、アメリカ、北ベトナム両国政府間でおこなわれることになりました。この動きは、私どもが最も待ち望んだものの一つであります。

 無論、今回の話し合いは休戦そのものの交渉ではありません。しかしその大前提となる北爆の完全停止を、どのようにして確保するかという問題をとりあげるのだといわれております。

 つまり今回の話し合いが成功すれば、平和交渉への扉がようやくひらかれ、これが失敗すればベトナムの国民とそこで戦う人々はとめどもない殺りくと悲惨への道をさまよわねばならないのであります。また世界にとっても、それはかぎりない危険の深まりを意味します。

 アメリカと北ベトナムのこんどの接触は、ベトナム戦争以来はじめてともいえるほど両国の和平気運が一致したときになされるのであり、その点で最大のチャンスをひそめるものであります。このチャンスはぜひ生かさねばなりません。そして真の意味での北爆の停止がベトナム和平のために絶対必要であり、それは、今日すでに国際的な常識とさえなっています。

 両国代表による実りある話し合いを、世界平和の名によって強く願わずにはいられません。

1968年4月4日

世界平和アピール七人委員会

1967 48J 「核アレルギー・核の傘」論を排するアピール

1967年12月29日

 原子爆弾の出現以来、四半世紀に近い歳月が経過したが、その間に核兵器保有国は五つになり、その中でも特に米ソ両国の核兵器体系は多様化と巨大化の一途をたどってきた。最近「核の傘におおわれた世界」という表現がしばしば使われるようになったが、そこには、今後の人類は核の傘の下で暮らさねばならぬという宿命論的なあきらめさえ感じられる。そう思いこむのは人類の平和への努力の意義と有効性を否定するものである。核の傘という言葉自体がおかしい。傘は雨を防ぐためのものであるが、核の傘といわれるものは、それとは全く反対に人類の頭の上に火の雨を降らす源となるものである。それどころか核の傘自身がどんどん巨大化しつつある怪物で、このまま成長してゆけば結局人類を呑みつくしてしまうであろう。しかし、それは自然現象ではない。人間がそれをつくり出し、それを成長させてきたのである。従って、それは人間の力によって、消滅させることができるはずのものである。

 あるいはまた「核アレルギー」という言葉も最近よく使われるが、元来アレルギーとは特に危険でもない物質に対して、異常に敏感な特異体質に関係していわれることである。ところが核兵器は危険きわまりないものである。これを危険だと思うのが正常な人間であって、危険に対して不感症になってしまう方が異常なのである。

 日本人もふくめて世界的に核の傘に対する宿命論者、核兵器不感症患者が増加してゆくならば、人類の前途は暗黒である。現在までの日本人の大多数は原爆の経験と平和憲法をよりどころとして、人類の存続と世界の平和のために貢献しようとしてきた。私たち日本人は核兵器を廃絶してしまわぬ限り各国民の安全と繁栄は訪れないという自明の真理を再確認し、日本が世界を核時代の次に来たるべき、よりよき時代へ導くリーダーとしての役割を果たすために、今後も一層努力したいものである。

1967年12月29日

世界平和アピール七人委員会

1967 47J 原爆被災者の人口調査に関する要望書

1967年12月27日

 広島・長崎に原爆が投下されたとき、何人の被爆者がいたかについては、一瞬にしてすべての行政機関が破壊されたという事情もあって、全く調査がなされて居りません。また、被爆直後に公務や救援のため入市し、第二次放射能による災害をうけたものや、胎内で被災したものの数も、全然不明のまま、今日に到っております。

 生存者・死没者をふくめて、原爆被災者の総人口が何人であったかということは、原爆症についての科学的研究を行う際の分母であり、被災の全貌をつかむための基礎数字となるため、すべての関係者から正確な調査が要望されています。

 しかし、この数字を明らかにするためには、来たる昭和四十五年の国勢調査の付帯調査として実施する以外には不可能であります。しかも被災後、二十五年目にあたるこの時期を失するならば、被災者は老齢化し、また死亡者も多くなって、正確な調査を行うことはできません。広島の例でいえば第二総軍・船舶輸送司令部(暁部隊)・中国総監府および中央官庁の出先機関や大会社の出張所が集中していたため、被災者は全国に散在しており、被災者の側にその事実をかくすという傾向も出ているので、国勢調査以外の方法で、実数をつかむことはできないと考えられます。

 以上の理由から来たる昭和四十五年の国勢調査においては、法律の一部改正により、原爆被災総人口の調査を、国勢調査付帯調査として実施するよう、重ねて要望いたします。

1967年12月27日

中国新聞社常務取締役

広島大学教授

日本YWCA名誉会長 世界平和アピール七人委員

法政大学教授 世界平和アピール七人委員会事務局長

東大総長

中国新聞社論説委員

作家 世界平和アピール七人委員

評論家

前東京大学総長 世界平和アピール七人委員

広島原爆病院長

広島女学院大学教授

前日本女子大学長 世界平和アピール七人委員

朝日新聞社社友

前広島市長

全日本婦人団体連合会名誉会長 世界平和アピール七人委員

京都大学教授 世界平和アピール七人委員

広島市長

糸川 成 辰

今堀 誠 二

植村   環

内村 尚 三

大河 内一夫

金井 利 博

川端 康 成

小幡   操

茅誠   司

重藤 文 夫

庄野 直 美

上代 た の

田中 慎次郎

浜井 信 三

平塚 らいてう

湯川 秀 樹

山田 節 男 

内閣総理大臣 佐藤栄作殿

1967 46J 原爆被害者援護法制定に関する要望書

1967年12月14日

 私たちは、これまで再度にわたり、原爆被害者援護法の制定を政府に要望してまいりました。

 先般十一月一日、「原爆被爆者実態調査」の結果が発表され、政府がきたる通常国会において被爆者対策を提案する方向で検討されていることを、私たちはよろこびとしています。

 すでに被爆者援護については、広島・長崎の県市首長および議長から、「原爆被爆者特別措置法」が、また被爆者の団体からも「原爆被害者援護法」が、それぞれ政府に対して要請されています。

 政府は、この際これらの切実な要求を汲まれ、抜本的な対策を昭和四十三年度において講じられるよう要望致します。

1967年12月14日

井伏 鱒 二
植村   環
内山 尚 三
江口 朴 郎
大江 健三郎
茅誠   司
川端 康 成
上代 た の
都留 重 人
中野 好 夫
日高 六 郎
平塚 らいてう
丸山 真 男
吉野 源三郎
蝋山 政 道

1967 45J 佐藤首相の南ベトナム訪問計画に関する日本政府への要望書

1967年7月22日

 私たちは、ベトナムでの悲惨な戦争を一日も早く終結させるため、日本政府が公正な調停者として積極的な行動をとることを切に願ってきました。ところが最近にいたり、佐藤首相は、今秋南ベトナムを公式に訪問する意向を表明されました。これは全く私たちの期待に反するものであります。私たちは、次の理由により、佐藤首相の再考を要望いたします。

 第一に、佐藤首相の南ベトナム訪問は、日本が南ベトナムへの派兵国の立場に大きく接近するという意味をもちます。

 佐藤首相は、南ベトナム訪問は和平への道を探るためである、と国会で答弁されました。しかし周知のように、これまでに一国の首脳で南ベトナムを訪れたのは、米国、韓国、オーストラリア、フィリピンの四国であり、これらはいずれも南ベトナムに派兵している戦争当事国であります。このような状況の下で、佐藤首相が南ベトナムに行かれるならば、首相の主観的意図のいかんにかかわらず、それは南ベトナムへの派兵国の立場に日本が同調したものと国際的に受取られても、やむをえないと言わなければなりません。現にソ連、北ベトナムおよび中国では、この南ベトナム訪問計画に対して強く反対する見解が発表されています。私たちは、日本はこの際、結果として南ベトナムへの派兵国とサイゴン政府とに加担するような意味をもつ行動を絶対にとるべきではないと考えます。

 第二に、佐藤首相の南ベトナム訪問は、日本が和平のために積極的役割を果すことを不可能にします。

 三木外相は、首相の南ベトナム訪問の理由を説明して、日本は消極的な中立にとどまらず積極的に和平の可能性を探求すべきである、と国会で述べられました。日本が和平のために積極的に行動すべきであるという見解には、私たちも全面的に賛成であります。しかし、和平促進の積極的役割をになうためにこそ、日本は戦争当事国の一方のみに偏ってはならないの・であります。佐藤首相が、北ベトナムをも近く訪問するなり、あるいは南ベトナム民族解放戦線との接触の道をきりひらくなりされているならばともかく、そのような計画がないままで南ベトナムのみに行かれることは、公正な調停者としての資格を、日本がみずから放棄するのに等しいと言わなければなりません。

 アジアの平和のため、また日本国民の利益のために、日本政府が現在なすべきことは、以上のような意味をもつ首相の南ベトナム訪問ではないと私たちは考えます。私たちが政府に切望したいことは、政府が去る五月十一日のウ・タント国連事務総長の和平提案の線にそって、先ず北ベトナム爆撃の停止を米国に求めること、および北爆停止を基礎に和平交渉を開始するよう戦争の当事者のすべてにはたらきかけることであります。

 以上の理由により、私たちは、佐藤首相が南ベトナム訪問の計画を取りやめられることを強く要望いたします。

1967年7月22日

世界平和アピール七人委員会

内閣総理大臣 佐藤栄作殿

1967 44J 中国の水爆実験に際し核兵器保有国に不使用宣言を行うように訴える

1967年6月18日

 中国がまたしても核兵器の爆発実験をおこないました。しかも、今回はそれが水爆であることを明かにしています。空中爆発でもあり、「死の灰」の降下を恐れなければならないだけでなく、この水爆実験によって国際緊張の一層の激化が憂慮されます。あらゆる核爆発実験に反対する私どもとしてもまことに遺憾というほかはありません。

 事態がこのままで来た以上、この際すべての核保有国はこぞって「いかなる状況下においても最初に核兵器を使用しない」ことを宣言してほしいと思います。

 また「核兵器を全面的に禁止し、これを廃棄する」と自ら声明している中国は、すすんで全核保有国の軍縮会議を呼びかけ、これが実現をはかるべき責任をもっていると考えます。

 このことは、フランスについても同様であります。米・英・ソ三国も、核拡散防止条約の締結を促進している立場からしても、核保有国の核軍縮問題にもっと積極的な態度を示し範を垂れるべきではないかと思います。現下の緊張した国際状勢にかんがみ心から関係各国に訴えます。

1967年6月18日

世界平和アピール七人委員会

1967 43J 再度原爆被害者のための援護法制定を要望します

1967年6月12日

 さる三月十一日、私たちは坊厚生大臣に、「原爆被害者を守るための援護法」を早急に制定するよう、要請いたしました。

 その後、同様の要望が、被爆者を中心として、佐藤首相をはじめ関係当局者に行われたと聞いています。

 これにたいし、佐藤首相以下政府当局者は、一般論としてはこの問題を好意的にとりあつかうことを言明して下さいました。しかし時期的には、厚生省による被爆者の「実態調査」の集計結果をまって検討するということであります。

 かえりみますと、被爆者援護について、衆参両院が満場一致で、「よつて政府はすみやかにその援護措置を拡充強化し、もって生活の安定を図るよう努めるべきである」と決議したのは、昭和三十九年のことでありました。それ以来すでに三年あまり経過しました。また被爆者の実態調査を実施して以来すでに一年半になります。そして調査の集約・発表は今秋以降になるということであります。

 このままですすみますと、援護法の制定はとうてい昭和四十四年度以前には望むことがむずかしいように思われます。

 被爆者の実態については、厚生省発表の「基本調査の概要」や地方自治体、被爆者の会などの調査でも明らかになっていると考えられます。それによりますと、貧困、病気、老齢化によって、被爆者がまことに同情すべき状態におかれていることが十分に理解できます。

 原爆被災後二十二年たって、いまなお被爆者の生活が不安にさらされているということは、国民として黙視するに忍びません。

 私たちは、かさねて政府が今次国会中に「審議会」を発足させ、昭和四十三年度予算において、「原爆被害者援護法」を制定するよう、要望してやみません。

1967年6月12日

井伏 鱒 二
植村   環
内山 尚 三
江口 朴 郎
大江 健一郎
茅誠   司
川端 康 成
上代 た の
都留 重 人
中野 好 夫
南原   繁
日高 六 郎
平塚 らいてう
丸山 真 男
湯川 秀 樹
吉野 源三郎
笠信 太 郎
蝋山 政 道

1967 42J 中東戦争の突発に際してのアピール

1967年6月7日

 中東における全面的な戦闘行為の突発と、これをめぐる危機情勢の拡大の恐れに、私どもは深い憂慮の念を禁じえません。ことに現在、ベトナム戦争になんらの解決の動きもみえないばかりか戦いが激化とエスカレーションの一路をたどっている時でもあります。そのうえ、フランスは太平洋のムルロア環礁でまたしても核爆発実験を強行しはじめました。これは、放射能害の累増、軍縮交渉停滞への新たな原因となっているだけではありません。すでに不安な国際的空気をさらにかき立てることになると思われます。

 私どもの最も恐れるのは、こうした事態の連鎖反応が第三次世界大戦への危険を深めることにあります。大戦への危険については、ウ・タント国連事務総長がベトナム戦争に関連して重大な警告を発している事実を、私どもは忘れてはなりません。

 実状がこうしたところまで来ている以上、関係各国は現在の容易ならない事態にひそむ危険を、あくまで真剣に考え、この危険の激発をくいとめ、情勢を収拾するために全力を傾倒しなければならないと信じます。それには、中東では戦うすべての国が国連安全保障理事会の決議に従って即時停戦し、一日も早く戦争前の状態に立ち帰らねばなりません。そして、その間、大国は厳正中立の態度を堅持すべきです。またベトナムでは、すみやかに北爆が停止されこれを手がかりとして関係国間で休戦交渉への道を必死にさがし求める努力がなされるべきであります。

 さらにすべての国は、戦争に対してはいかなる面でも協力しないとの立場をとり、これをつらぬかねばならないと思います。またフランスに核実験の停止を求めることはいうまでもありません。

 世界の平和が脅かされることは、すべての国の存立が脅かされることを意味します。

 戦う国々には無論のこと、他の全関係諸国に対し、自国の繁栄と、国民の幸福のために、そして世界の平和のために現在きわめて危険な事態について強く訴えたいと思います。

1967年6月7日

世界平和アピール七人委員会

1967 原爆ドーム補修の起工式に際して

1967年4月10日

 本日原爆ドーム補修の起工式が挙行されましたことは、その保存を強く希っていた私どもとして、誠に喜びに堪えません。保存について長い間努力をつづけてこられました、浜井市長を始め広島市民の皆様に心からの敬意を表したいと存じます。特に喜びたいことは、この保存が海外を含め日本全国からの平和を希む多数の人達の善意で、できることになったことであります。

 ヴェトナムでは、今日なお悲惨な戦いがくり返され戦争解決の萌しさえも見えませんが、このような時に「原爆許すまじ」という日本国民の固い決意が原爆ドーム保存という形で結集され、世界に表明されましたことは、誠に意義深いことであります。

 私どもは党利党略を越え、多数の人達が一つの目的に力を結集すれば如何なることも達成されるということを原爆ドームの保存運動で知ることができました。

 私どもは原爆ドームの保存を出発点として、これから、長い間とり残され苦しみつづけている被爆者の援護のため力を尽してゆきたいと思います。平和に対する熱意がさめる時、イデオロギーや感情に走り平和のために力を結集することを忘れた時、この永久に保存される原爆ドームの前に立ち、自らの心を励まし、自らを反省していこうではありませんか。

1967年4月10日

世界平和アピール七人委員会
事務局 長内山尚三