今月のことばNo.20

2015年12月19日

今、メディアに求めたいこと

土山 秀夫

 2015年9月19日未明の国会において、集団的自衛権行使容認を含む安全保障関連法が成立した。毎日新聞によるその後の世論調査(10月7,8日に実施)では、「安保関連法を評価しない」とする人は57%にも上り、それ以前の批判的な世論傾向は少しも変わっていない。
 にもかかわらず、安保関連法成立後のメディアの世界では、奇妙に共通した現象が見られるようになった。政府の御用新聞かと疑われる産経、読売の両紙にあっては、希望が達成できたのだから当然だったに違いない。だがそれ以外の各紙、中でも筆法鋭く法案の危険性を指摘し、問題点を追及してきた毎日、朝日、東京を始め、多くの地方紙までもがパタリと安保関連法に関する記事を掲載しなくなったことだ。
 関連法が成立してしまったのだからあれこれ言っても仕方がない、或いは民意の試金石と見なされる来年夏の参議院選挙前にキャンペーンを張ればいい、あまりいつまでも批判を続ければ、読者がうんざりして購読者数に響きはしないか、などといった思惑が社の幹部に働いた結果ではないかと考えられる。そうした点は筆者としても分からないではない。
 しかし、である。今だからこそ、安保関連法が日本の今後の命運を決定的に歪め、先の大戦で得たはずの教訓を台無しにしかねないことを、メディアは警鐘を鳴らし続ける使命を担っているのではないだろうか。そう思わせるほど、国会論議を通じて知り得た憲法無視の政府の無責任さ、法案の具体例に見られる辻褄(つじつま)の合わない釈明の数々、米国の補完勢力として、自衛隊員のリスクを口にしない後方支援の実態等々、国民にとっては説明の積み残しはまだまだ残されたままだ。これらの疑問点に対して、メディアはキチンと検証し、総括して読者に提供して欲しいとの声は決して少なくない。
 筆者がこうしたことにこだわるのには理由がある。満州事変から日中戦争、さらには太平洋戦争に至る間、民意の推移を肌で感じた筆者は、一般の民意というものがいかに移ろいやすいかを知っているつもりだからである。かつての日本は議会政治の弱体化と反比例して軍部の台頭を招き、経済的行き詰まりを打開する手段として、”満蒙開拓”という名の侵略へとつながる路線を選んだ。そして日本によるかいらい政権の「満州国」に対する国際連盟の勧告を拒み、次第に国際的孤立へと追い込まれた。 ところが国際連盟からの脱退は国民の「快哉(かいさい)」の声によって迎えられ、熱狂的な軍国主義下で育てられた多くの国民は、「もっとやれ、もっとやれ」とばかり、冷静な平和的手段や非戦の声をかきけして行ったのだ。
 ラジオ、雑誌を含むメディア全般への言論統制、自社の生き残りを図るための自主規制、思想犯を主たる対象とした特別高等警察(特高)の新設などが相次いだ。治安維持法は当初こそ国家転覆を目論(もくろ)む犯罪者の取り締まりを目的としたものの、その後の改正で共産主義者、社会主義者、新興宗教指導者、戦争末期には自由主義者、民主主義者、さらには政府批判を行った者まで対象とするに至り、目ぼしい人物に対しては、”予防拘束”という信じ難い手段によって言論を封じたのが70年前までの実態であったことを忘れてはならない。
 来年からは選挙権が18歳年齢まで引き下げられる。専らインターネット情報に頼りやすい人たちの中には、一刀両断的な過激なナショナリズムに染まる可能性も十分に考えられる。これら若い人たちへの啓蒙もためにも、また、今は安保法制への根強い危機感によって廃案を目指している国民の意識を風化させないためにも、空白期間をメディアの継続的報道(たとえ狭いスペースであったとしても)によって、ぜひ活用して欲しいものである。

(「NPO法人ピースデポ」発行「核兵器・核実験モニター」第484号(2015年11月15日)から許可を受けて転載)