「人間の安全保障」と「人間運命共同体」の危機 コロナ問題での「米中対立」から考える
武者小路公秀
(1)米中共同で進めた「コロナ研究」
WHOでの米中対決は、コロナウイルスに人類全体が立ち向かわなくてはいけないときに、大変残念なことです。
WHOは、2009年にH1N1感染症(新型インフルエンザ)発生の際、WHOでの国際協力が不可欠と考えた中国政府が台湾にWHO総会のオブザーバー資格を承認してきたのですが、米国のトランプ大統領は、「WHOは中国寄り」として、WHOへの資金供出を停止すると発表しました。
もともと、台湾をオブザーバーにすることについては、「台湾は中国の一部である」との立場に立ちながらも、中国政府は「人間の安全保障」の立場、「人類の運命共同体」への所属を強調する立場で認めたものでした。米中経済戦争が「人間の安全保障」や「人間運命共同体」の危機をエスカレートさせてしまったのは、残念なことでした。
今回の武漢のコロナウイルスの発生は、米国政府と米欧メディアによって中国政府の責任問題に矮小化されようとしています。
今回、コロナウイルスはどこから来たのでしょうか。筆者も当初、武漢の感染症研究所が新型コロナウイルスを人間に感染するウイルスに転換する生物兵器の研究所ではないか、と想像しました。
「細菌兵器及び毒素兵器の開発、生産及び貯蔵を禁止する」生物兵器禁止条約は 1972年に成立しており、その研究開発は「人類に対する犯罪」です。そして、ウイルスを新しく人間に感染するものにする「機能獲得型」の研究は、明らかに国連の刑事裁判所で犯罪として裁かれるべきものです。
しかし一方で、細菌やウイルスの研究は、兵器に開発されたウイルスに対する「防衛」「予防」のための研究という「防御的な側面」がある「両用技術開発」だったことも事実です。「防衛的な意味」での研究については、感染症研究者などから、国際人権の立場での強い反対もありますが、多国籍巨大企業群などが援助し、公認されてしまっています。
特に、武漢の感染症研究所も、新型コロナウイルスの人間への感染について、米国のノースカロライナ大学との共同研究をしていたという事実が明らかにされ、「人間の安全」を保障する立場にたって、すでに何年か以前から、米中両国の専門家の間の協力研究が進んでいたことがわかりました。
米国は今回のウイルスを「武漢の研究所から流出したものだ」と主張し、中国は「狂気の沙汰だ」と反論していますが、決着はついていません。5月7日のCNNによれば、米、英、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの「ファイブ・アイズ」のネットワークは、この説の可能性を「極めて低い」とみているそうです。
中国政府が新型コロナヴィルスの出現を最初に見つけて訴えた李文亮医師を「デマを飛ばす」として処罰したり、感染の発生について十分な情報公開が遅れたりしたことが、「疑惑」の根拠になっていることも否定できません。
今後のウイルス対策を考える上でも、このウイルスが、人為的につくられたものか、そうではなかったのかは、冷静に、学術的な立場で、事実を究明する国際的な努力が求められています。
(2)医療従事者を支えた「社会主義核心価値」の「敬業」
武漢のウイルスとの闘いには、武漢の閉鎖とともに、外部から多数の看護師の動員がありました。長い髪を切って丸坊主になって働いたという看護婦さんの「献身」が報道されましたが、派遣された人々には「自発的」なケースも「強制的」に動員されたケースがあっただろうことも、容易に想像されます。
日本をはじめ自由主義諸国では、こうした活動を支えるのは、十分な「手当」のほかに、「人権」の感覚でしょう。西欧的な「人権」感覚を持たない中国で、なぜ、こうしたことが可能になったのでしょうか? 米欧メディアが決めつけている「共産党政府の独裁」の結果でだけ、だったのでしょうか?
私はこれこそ、中国が提唱してきた「社会主義核心価値」の価値観が生んだものが大きかったのではなかったのか、と考えています。
2012年11月、中国共産党第18回全国代表大会*は、「社会主義核心価値観」を提唱し、それ以来、中国のさまざまな場所でこの12項目のことばが溢れています。「富強」「民主」「文明」「調和」「自由」「平等」「公正」「法治」「愛国」「敬業」「誠信」「友善」です。私の理解では、中国ではこれらの項目が、米欧の人権などに対応し、中国政府の「人類運命共同体」参加の精神的な支えになっています。「自由・平等・友善」はフランス革命の「自由・平等・博愛」と同じものです。「敬業」はその中で、全ての中国市民の多様な仕事、特に自分の仕事の重要さを尊敬する価値観です。
「敬業」の中で培われてきた、「専門職の倫理」、西欧で言えば「プロフェショナリズム」が、支援に来た医療従事者を支え、外部と遮断された武漢の人たちを支えていたのではないでしょうか。12の価値の中には「友善」もあります。人間同士互いの生活を支え合う「友善」の思想は、自由・平等と並んでフランス革命のスローガンと同じものだろうと思います。
日本にもこういう思想が生きていたと思います。今回も、国民の中からはそうした姿勢がごく自然に湧き上がりました。
しかし、政府の対応はどうだったでしょうか? つまり、国民の仕事を「軽業」と「重業」にわけ、日本経済をささえている仕事をしている人々を「重業」の対象として豊かな支援を送り、そうでないと判断された職業の人たちは、仕事を敬うどころか、「軽業」と軽んじられ、十分な支援はされていないように思えます。例えば日本で働いている外国人労働者は、日本人と同じ仕事をしていても、軽んじられてはいないでしょうか。
「重職業」には、生物兵器をつくることも、ワクチンを製造する職業も含まれます。また、「重職業」は中国・米国・日本など国家の中だけにあるのではなく、多国籍巨大企業などが巨利をむさぼっています。この問題については、私と同年配の板垣雄三東大名誉教授が詳細な分析を公表しておられるので、ここでは触れません。
《板垣雄三「コロナ危機の「目隠し状態」から脱け出して、広く世界を見渡そう」http://blackisbeautiful2013.blog.fc2.com/blog-entry-12550.html》
中国でも、戸籍を故郷の農村にのこしてきた「農工」(農民工)の中には、コロナウイルスで生活できなくなっている人々もいるようです。
(3)真の日中友好のために
新型コロナウイルス感染症は、人々の交流が活発になる現代の世界で、瞬く間に世界中に広がりました。生活物資が不足したり、生産部品がなくなったりしたことで、今更ながら「世界は一つ」であることも実証されました。
すべての人が世界の今を支えているいま、私たち現代に生きる人類は、国同士の不毛にも見える論争を超えて、新型コロナウイルス感染症の感染を克服し、「重業」と「軽業」に分解され始めている世界の現状を、何とか食い止めることは急務です。
そのためには、体制の違いを強調するのではなく、中国には中国の論理と価値観があることを尊重し、そのことを通じて、必要な対応が行われるよう考えることが大切です。既に述べたとおり、あらゆる職種の仕事を尊敬する「敬業」の精神と、仲間としての友情に基づく善行である、包括的な「友善」を基本にした考え方は、西欧社会でもごく普通に受け入れられることでしょう。
私たちには、とかく、日本や米欧は「民主主義諸国」、中国は「独裁・非民主主義国」とする必ずしも正確でない分類や、思い込みが先だって、正確な判断ができないことがあるように思います。
また、90歳の筆者にとって、小学生時代に、上海事変(1932年)の「爆弾三勇士」を讃えていた教育や、日本軍による武漢三鎮の占領(1938年)を祝う提灯行列はよく記憶しています。同時に、かつての大戦での中国への蔑視や、日本軍の犯した誤りの贖罪など、複雑な思いの中で、判断はより微妙な色合いを持ってしまいます。
こうした中で、私は日本人として今回のコロナウイルスの武漢市民の苦難について、ただ傍観者になって中国政府を批判する気持ちにはなれない複雑な気持ちになっています。
われわれ日本人民と中国の人民は、ウイルスによって生命を奪われるなど、いろいろな悲しみや苦しみの犠牲者になっている点で、共通の痛みを感じています。
ですから、日本でも中国でも、ウイルスの脅威を経済戦争の劇化で考えるのではなく、むしろウイルスへの共通の安全保障、共通の包摂的な和解の新しい生活、日中共同の「敬業」、両国人民の多様な仕事の相互的な尊敬ができる地域の「友善」に基づく付き合いで考えたらどうだろう、と考えます。
中国自身が掲げる「価値観」。たとえば「敬業」や「友善」、それをベースに、中国の抱える問題―都市と農村、チベット、ウイグルや香港など―も、「和解」の道を歩けるように、支援していくことが大切ではないでしょうか。(2020年6月10日)
*訂正(2021年2月2日) 全国代表大会 ← 全国人民代表大会