今月のことばNo.54

2020年7月11日

差別について~新型コロナ禍の日々に思う

大石芳野(写真家)

 世界中が新型コロナウィルス(COVID-19)で混沌(カオス)としているなかで改めて考えさせられることがある。そのひとつが差別の問題だ。

 新型コロナウィルス(COVID-19)対策に従事する看護師の子どもが保育園側から「来ないでくれ」と登園を断られた。また、横浜のクルーズ船で感染して完治した乗客は友人から「治っても会いたくない。外にも出ないで」と言われたと報じられた。感染者への侮辱的な言葉に暗澹とさせられる。患者たちを治療する医療関係者に対してばかりか、その家族への暴言やいじめも後を絶たない。医師や看護師たちがいなかったら治療もままならないことは加害者当人も分かっているはずだが。
 ウィルスへの怯えが高じて排除の気持ちにさせるのはまさに利己的な自己防衛だ。ウィルスに怯える人間がウィルスよりも怖いとよく言われることを実証している感じがする。けれど実際は違う。カミユは『ペスト』の中でこう語っている。「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ。」そして「りっぱな人間、つまりほとんど誰にも病毒を感染させない人間とは、できるだけ気をゆるめない人間のことだ。」(宮崎嶺雄訳)
 イタリアやフランスでは新型コロナで亡くなった人たちに敬意を表して新聞に一人ひとりの名前や簡単なメッセージを書いて掲載したそうだ。それに比べて日本はどうだろうか。ほとんど多くの場合、当人の名前も遺族についても固く伏せる。差別はどの国にも見られるが、日本のように直接的なコトバを投げかけて当事者を貶めようとする言動がまかり通っているのはなぜだろうか。
 そう考えながら重なるのはアメリカでの黒人に対する「命の格差」を巡る問題だ。アメリカ人は拉致や誘拐によって大勢のアフリカ人を連行し、奴隷として酷使しながら繁栄を図ってきた。その差別が最近もまた白人警察官に繰り返されて「人種差別反対」の大デモに発展した。それはミネソタ州の黒人男性ジョージ・フロイドさん(46)を撮影したSNS映像がきっかけだった。警官はズボンのポケットに手を入れたまま、足でフロイドさんの首を8分間余りも踏み続けて殺害した。人びとは激しい怒りを露にし、新型コロナウィルスによるパンデミック状態によって死者や失業者が続出するなかで、「黒人の命は大事だ」と声をあげて人種差別の撤廃を求め、その波は欧州にも広がった。
 私たちの周辺にもある差別の深い淀みについて思う。無意識の内にも沢山の差別をしながら生活をしているし、差別は至る処に漂っている。為政者が人びとの身分をあえて分類別をした遠い過去の被差別部落という負の遺産が生き続けることにも遠因のひとつはあるのだろうか。まるで可視化できるような差別はいくらでもある。
 たとえば、福島原発事故の被災者に対する心無い言動だ。彼らは使用していない東京電力の放射能汚染に襲われて逃れたにも拘らず、東京電力を使用する首都圏の人たちに「放射能がウツル」と疎外された。また、水俣病を筆頭に大企業は数多くの公害病患者を産み、無関係を装った大勢の暗い人差し指が患者たちを受難へと追い込んだ。そして原爆投下による広島・長崎の被爆者は恐怖の記憶と原爆症との闘いを強いられてきた。ある被爆者は「一番の辛さは差別です」と暗い眼差しを向けて私に語った。
 さらに沖縄の米軍基地は差別以外の何ものでもない。県民の大半が米軍基地反対の表明をしても、辺野古に現れているように、政府は全く考慮しない。これは為政者の差別と国民の無関心のせいだろう。それでも彼の地を訪れる度に人びとは人懐こい笑顔で私に接してくれる。その懐の深さに、構えたカメラのファインダーが曇ることがある。
 在日コリアンへのヘイトスピーチも深刻な問題だ…。挙げれば幾つもの差別を私たちは日常のなかで産み育てている。新型コロナウィルスに対する恐怖心は強くても患者にならない保証は誰にもないことも含めて、自分の心の奥にある無意識の差別意識によって加害者側にもなる。ではどうするのか。結局、もし自分だったら、という想像力を働かせて相手の身になることだろう。些末な差別心を放っておくことで憎しみが芽生え、歴史が雄弁に示すように取り返しがつかない人権破壊に繋がらない前に。(2020年7月9日)