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今月のことばNo.26

2016年6月4日

ウチナーとヤマト 歴史と差別意識

武者小路公秀

 私が所属している春日井市高蔵寺のカトリック教会では、今年初めから、琉球新報を予約購読している。ヤマトの新聞では、辺野古など沖縄で本当に何が起こっているかわからないから、ということで教会の九条の会の仲間で読み始めたのだが、それでも、琉球新報に書いてあることを本当に理解しているのか、自分でもあやしいと自覚せざるをえない。ウチナー(沖縄)をわれわれヤマトンチュ(本土の人)が本当にイメージできているのか、、と危ぶむのである。

 一般的に、本土の人たち、ヤマトンチュの沖縄のイメージは、沖縄は他の都道府県同様、日本の一地方で、他と何も変わらない南端の島で、風光明美で、人情も豊か。だが、米軍基地が集まって、いろいろな被害が出ていて、政府と対立しているところ、ということだろう。

 しかし、ここで欠落しているのは、そのイメージを根本的に問い直す歴史についての認識だ。日本国家は、1429年から1879年まで独立国だった琉球国を力で併合したという事実に触れたがらず、いまもそれが再生産されている。
 実際、琉球国は、中華秩序のなかで礼儀を守る「守礼」のクニ(邦)と評価される文明国だったし、幕末の1854年には、米国が日米和親条約締結に続いて琉米修好条約を結んだ独立国で、文化も言葉も「ヤマト」とは違う伝統を持っていたのである。
 現在、日本全土のわずか0.6%の地域に全土の74%の米軍基地があり、そこに巨大な辺野古の新基地を建設しようとする政府のごり押しが続いている。沖縄からの声は、「沖縄差別をまだ続けるのか」であり、「沖縄はいっそ独立して米国と直接対峙しよう」という声さえある。
 「ヤマト」は、こうした声を「一地方の声」として片づけ、かけがえのない自然を破壊する「辺野古」もせいぜい他県の名所同様に考えてしまう。ここに問題がある。

 私が思うに、いま大切なのは、沖縄の歴史と文化から発想することである。琉球弧を改めて太平洋の中に位置づけ、琉球国、つまり琉球固有の先住民族が持つ、自然に対して開かれた沖縄固有の「ウチナー」の文化の「アイデンティティ」を、花開かせることではないだろうか、ということである。
 考えてみると、ハワイも琉球も、19世紀に植民地化されたが、どちらもアニミズムの文明が花開いた太平洋の先住民族王国である。いま、太平洋先住民族の文明の中で、ボリヴィアなどの先住民族による大地の母「パチャママ」の権利の回復の動きが国連でも支持され、「スマック・カウザイ」(素晴らしいヒトビトの生きざま)と呼ばれる「世直し」の動きも注目され始めている。
 太平洋を「米中軍事対決の海」から、外縁の先住民族や島嶼諸国と協力して、人間と大自然、人間同士の和解の海にもどす道をさぐる。これは、反植民地主義・非武装・非同盟のクニを目指す日本国憲法が求めるものでもある。
   ×   ×   ×
 原稿を書いて掲載されるまでのあいだに、大変な事件が起きた。またまた米軍属による若い女性の凌虐殺人・死体遺棄事件である。一体、こうした悲劇を何度繰り返せば済むのだろうか。
 この事件の根本には、人間性を否定する軍隊が持つ非情さの他に、隠しようもない米軍の差別意識がある。在沖縄米海兵隊が「沖縄県は歴史や基地の過重負担、社会問題を巧妙に利用し、中央政府と駆け引きしている」、「多くの県民は、軍用地料が唯一の収入減で、基地の早期撤去を望んでいない」などと、沖縄を蔑視し、事実に反する研修資料を作っていたことも明らかにされている。
 琉球処分以来、沖縄を植民地的に支配し、今なお米国にそれを差し出して恥じないヤマトンチュに、「沖縄なら仕方がない。米兵なら仕方がない」という差別意識がないか。改めてそれを問わずには居られない。

今月のことばNo.25

2016年5月24日

慰霊と謝罪の狭間―オバマ氏被爆地訪問に思う

土山 秀夫

 バラク・オバマ米大統領は今年の5月27日に広島を訪問することを正式に決定した。
 かねてオバマ氏の被爆地訪問を望んでいた私たちは、その決定を歓迎すると同時に、米国内の批判を説得しての大統領の決断を支持したい。これまでの段階では、米国内向けの大統領側近の気配りが効を奏し、被爆地訪問が決して謝罪の旅ではないと思わせることに成功しているようだ。
 ただこのような事情を勘案しても、私の率直な感想として、オバマ大統領の被爆地訪問は時期を逸したものと言わざるを得ない。思い返せば2009年1月に大統領に就任したオバマ氏は、その年の4月チェコのプラハにおける「核兵器のない世界を目指す」との演説によって、世界の人々に衝撃と新鮮な感動を与えた。核兵器を使用した唯一の国としての米国の「道義的責任」に触れたのも、国内の根強い原爆投下正当論を考えれば、大統領としてギリギリの表現であったに違いない。
 このプラハ演説の具体化として、同年9月にはオバマ氏の要請によって国連安保理首脳会合が開かれ、全会一致で「核兵器のない世界」を共同して実現させることを決議した。また翌10年4月には米ロ首脳による「新戦略削減条約」(新START)の署名、さらに「新安保サミット」の招集によって、参加国が今後4年以内に核拡散防止のための管理徹底を図ることを決議するなど、着実な成果を示し始めた。これによって、長期にわたって核廃絶運動に取り組んできた人々に、大きな希望と期待を抱かせたのは明白だった。
 被災地長崎の私たちは、2000年、03年、06年、10年の4回、「核兵器廃絶地球市民長崎集会」という国際NGO会議を開催し、毎回延べ数千人の参加者を得ていた。この集会の実行委員会の中から、近い将来ぜひオバマ大統領をお招きしよう、そして肌で被爆の実相に触れることによって、プラハで述べた自らの理念は決して間違いではなかったことを再確認してもらい、世界をリードする核廃絶への次のステップを発信してほしい、との要望が出された。その結果、4カ月という短期間だったが7万6千人の署名を集め、委員長の私が09年11月米大使館に持参して公使に手渡した。
 11年になるとルース米国駐日大使が長崎に来訪したが、事前に被爆者とは会見しないこと、原爆資料館の見学後私と朝長万佐男長崎原爆病院長(当時)の2人に面談したいという意向が伝えられた。被爆者の中には、証言を聞いてほしいとの不満もあると耳にした。私たちとの面談は約30分、通訳は入れないとのことだった。私は少しでも被爆者の意を汲めればと考えて、被爆時に医学生として救護活動に従事した体験を語り、間接的に当時の惨状を浮き彫りにした。ルース大使からはいくつかの質問があったが、中心的な内容に対して私は何となく奇異な感じを抱いた。
 「被爆地の人たちは、オバマ大統領のプラハ演説をどう受け止めていると思うか」、「被爆者たちは、オバマ大統領に対してどういう感情を抱いているように思うか」といった類の質問がほとんどだった。そして面談を終えようとしたとき大使の発した言葉「今日ここで交わした対話の中で、先生方がいわれたことはむろんメディアに公表されて構いませんが、私がお答えしたことやお尋ねしたことは、一切伏せておいて頂けませんか」は、やはりそうだったのかと、私を納得させるのに十分なものがあった。
 私はルース大使がオバマ大統領の被爆地訪問の予備知識として、日本側の環境、つまり被爆地や被爆者が大統領の来訪を本当に歓迎しているのか否か、原爆投下への謝罪を求める声が強いのか否かを知りたがっており、それを公表されるのは今の段階では困る、と考えていることを知った。私たちは今回の広島訪問の正式発表まで、大使との約束を守ってこの件に触れたことはない。ルース大使に始まり、ケネディ大使に受け継がれた日本側の情報、そしてワシントンの大統領側近による国内の情報が集積され、最後に大統領の決断に至った道程はようやく終末を迎えようとしている。
 ただこの時の流れが長すぎた結果、09年から10年にかけてのオバマ大統領による核兵器のない世界への貢献は、その後、急速に力を失い、今は見るべき成果もなく終焉を迎えざるを得ない状況に至っている。オバマ氏個人の意思は不変であったとしても、主として米議会の強い抵抗によって妥協を強いられた結果である面が大きい。その意味で、もしもオバマ氏の被爆地訪問がせめて任期の1期目に実現し、プラハ並みの声明がだされていたとしたら、核廃絶を目指す世界の潮流はもっと希望の持てる勢いとなっていたのではあるまいか。任期の残り約半年の大統領が、いかに核廃絶への決意を示しても、象徴的意味はあるにしても、他の核兵器保有国が政策として真剣に呼応するとは先ず考えにくい。
 もう一つ気がかりな点がある。安倍晋三首相が大統領の広島行きに同行することだ。そのために日米両政府の擦り合わせの中からであろう、大統領の短い声明は「未来志向」的なものであり、被爆者に限らず戦争によって命を失った全ての犠牲者に対する「追悼」の意が盛り込まれるようだ、との報道がしきりである。偶然の一致かも知れないが、「未来志向」、「犠牲者への追悼」といった言葉は、安倍首相が好んで使う表現と同じだ。それも過去の歴史認識を問われての言い逃れや、(現在こそ慎んでいるが)靖国参拝の弁解に用いられるために国民の印象は悪い。
どうかオバマ大統領はそうではなく、今後の米大統領に対して、「核兵器のない世界」の実現に向けて米国が先頭に立ち、核兵器使用国の道義的責任を果たすようぜひ申し送ってほしいものである。

今月のことばNo.24

2016年5月9日

水俣病と福島原発事故

池内 了

 今年は水俣病公式確認60周年で、連休の間、その記念講演会が東大安田講堂であった。ここでいう「公式確認」とは、1956年5月1日に、新日本窒素水俣工場附属病院の細川院長から水俣保健所に口頭で届けられた時点であって、カルテの記載によれば、少なくともそれ以前の1941年から水俣病とおぼしき病気が発生していたことがわかっている。さらに遡れば、同社は戦前では朝鮮で操業しており、そこでもメチル水銀を垂れ流していたようだから、きっと被害が生じていただろうけれど、植民地支配の渦中でありウヤムヤになってしまったのだろう。
 その悲惨な病状が目の前にありながら、その原因物質が何かについて厚生省(当時)がなかなか断を下さないまま、いたずらに時間だけが経過して1965年5月31日に同様の症状を呈する新潟水俣病の発生が報告される事態になってしまった。そして結局、それぞれ新日窒(1965年からチッソ)水俣工場と昭和電工鹿瀬工場が、アセトアルデヒドの製造工程で副成されたメチル水銀をそのまま海や川に垂れ流し、魚介類を通じて摂食した結果引き起こされた公害病であると政府・厚生省が認定したのは1968年9月のことであった。そもそも、魚介類を摂食したことによる中毒だから、原因物質が何であれ、保健所に届けがあった段階で食中毒事件としてその売買・摂食を禁止していれば、これほど被害が拡大することにはならなかったはずである。
 しかし、そうしないまま国家が主導する経済成長政策が背景にあって、一切責任を認めない加害企業、原因物質を曖昧にしてしまう科学者、良心的な医師たちへの圧力などが問題の解明を遅らせた。また、原因物質が明らかになっても、公害病としての実に厳しい認定基準を課して患者を切り捨て、現在においても申請者に対し認定患者数は10分の1以下に過ぎない。にもかかわらず、政府と企業は問題を打ち切ろうとしており、未認定患者から次々と訴訟が起こされている。科学者として、この間に企業を守ることに尽してきた化学者や医学者の倫理責任を問い続けねばならないと思う。
 そこでふと、福島原発事故のことを思う。こちらは事故が発生してからまだ5年少ししか経っていないのだけれど、早くも政府は問題を終息させようと動いている。帰還困難地域以外のすべての地域の避難指示を早急に解除する予定で、何ごともなかったかのように装ってオリンピックを迎えようとの魂胆がありありと見える。また、明らかに健康診断における甲状腺ガンの患者数が増えているにもかかわらず、政府と福島県はそれは放射線被曝によるとは考えられないとする見解を変えようとしない。この過程において、国や東電を免罪するかのような原子力の専門家や放射線科学者の倫理を疑う行動が目につく。やはり、ここでも科学者の倫理責任を問わねばならないことは確かである。
 水俣病の60年を思いつつ、さて、55年先の福島はどのような状況で迎えるのだろうか。

2016 121J 大規模災害対策に名を借りる緊急事態条項追加の憲法「改正」の危険性

2016年4月25日
アピール WP7 No.121J
2016年4月25日
世界平和アピール七人委員会
武者小路公秀 土山秀夫 大石芳野 小沼通二 池内了 池辺晋一郎 髙村薫

 安倍晋三首相は、今年7月に行われる参議院選挙を前にして、自民党および改憲に同調する政党に3分の2以上の議席を確保させ、憲法「改正」を実現させる狙いを公言している。その中で、国外からの武力攻撃や国内社会秩序の混乱、大規模自然災害等に対応するための「緊急事態」条項を新設する「改正」からやるべきだという議論が有力だと述べている。日本国憲法第99条によって憲法を尊重し擁護する義務を負っている首相は、この義務と国民主権を完全に無視し、三権分立の立法機関である国会を軽視する言動を重ね、戦後70年を超えて積み重ねてきた国の形を強引に変更し続けている。

 自民党憲法改正草案第九章「緊急事態」を見れば、第98条(緊急事態の宣言)第1項で、「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる」と規定し、緊急事態の宣言が発せられたときには、第99条(緊急事態の宣言の効果)第1項で、「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる」とあり、同条第3項で、「何人も、・・・国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても・・・基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。」とし、同条第4項で、「宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期・・・の特例を設けることができる」としている。
 「法律の定めるところにより」と7回書き、「閣議にかけ」、基本的人権を「最大限に尊重」するように見せているが、実際には緊急事態宣言の範囲は、「等」、「その他」と書くことによって、何らの制限なく決めることが可能になっている。そして宣言を発したあとでは、政府は立法機関を無視して「法律と同一の効果を有する政令を制定でき」、自由な財政支出が可能になる。基本的人権は、どこまでも制限でき、緊急事態の期限の延長も意のままになり、国の指示に対する批判や異論は許されなくなる。これでは、日本国憲法が国民に保証している基本的人権と、主権者である国民が政府に負わせている制約のいかなる項目も、例外なく否定できることになる。これこそナチスのヒトラー政権が、ワイマール憲法のもとで合法的に権力を獲得し、第2次世界大戦の敗戦まで独裁を続けた方式であって、自民党憲法改正草案はその踏襲を可能にするものである。

 大規模自然災害はこれまで繰り返し起きてきたし、これからも必ず起こる。これらに対しては、経験に基づいて災害対策基本法(1961年、2013年改正)はじめ、個々の法律を整備して対応してきた。これを憲法改正によって首相のもとに権限を一元化し、地方自治体の長に指示する方式に変えるのは、有害である。5年前の東日本大震災を見ても、事態がつかめていない中央からの指示には、不適切・有害なものがあったことが明らかになっている。必要な権限は現場が分かる現地に任せてそれぞれの状況に合わせた速やかな対応を可能にし、政府は支援に徹する地方自治の強化こそが向かうべき方向である。

 これに比べて、「外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱」は、人為的・社会的行為なのだから、起こさせない政治が求められる。外部からの攻撃など緊急事態が起こり得ることを言い立てるのは、国の軍事化を促進するために使われてきた常套手段である。相手の挑発的行動に対する自衛のための防衛力強化というのは、双方が使う言葉であって、結果において軍拡競争が続き、緊張を高め、偶発的衝突の可能性を増大させてきたことは歴史が示している。報復の連鎖が解決につながる道でないことは明らかなのだから、世界に敵を作らないことを国是としてきた日本が取るべきでなく、支持すべきでもない政策である。
 外務省は2015年10月4日に、「9月には、ISIL機関誌において、インドネシア、マレーシア、ボスニア・ヘルツェゴビナの日本の外交使節(大使館等)を攻撃の対象候補として、言及したことがあります」と渡航者に「注意喚起」した。これは歴史的にイスラム諸国と敵対関係になかった日本の首相が、イスラム諸国を敵に回しかねない演説を行ない、「テロと戦う」有志連合に加わり、イスラエルとの軍事協力を進めていることと無関係ではない。5月に予定されている伊勢志摩サミットや7月の参議院選挙を前にして、不測の事態が起こる可能性があるという懸念を誰も否定できない。しかしそのために憲法改正が必要であるという議論にも根拠がない。万一の場合に必要ならば、法律改正を提案すればよいのである。

 少子高齢化、財政赤字が慢性化している日本が軍事大国を目指すことは不可能であり、世界に敵を作らない戦争放棄を憲法の基礎としていることから見ても誤りなのである。特定国との絶対的つながりを続けることをやめて、意見と立場の違いはすべて話し合いで解決することに徹すれば、国際紛争の調停を行うことが可能になり、防衛力を強化せず、平和と安定と繁栄への道が開けることになる。これこそが、憲法を受動的に守るのでなく、その理念を積極的に広げ、発展させる道である。
 世界平和アピール七人委員会は、緊急事態条項の追加は最悪の憲法「改正」であるとみなし、日本国憲法が依拠する平和主義・国民主権・基本的人権の尊重のために全力を尽くすことを改めて誓う。

PDFアピール文→ 121j.pdf

今月のことばNo.23

2016年4月13日

チェルノブイリへの思い

大石 芳野

 旧ソ連のウクライナ北部にあったチェルノブイリ原発事故から30年になる。原発は1986年4月26日午前1時24分に4号炉で人為的なミスによって大爆発を起こし、レベル7の値に達した。高濃度の放射性物質が気流に乗ってベラルーシ、ロシアばかりかヨーロッパにまで拡散し世界中に及んだ。日本でも「雨に濡れたくない」という話題が巷に流れたりした。
 ソ連から発信される情報は制限されていたが、医師や科学者、ジャーナリストたちによって徐々に知れ渡り始めた。人びとがどのような状態にあるのかをさらに取材しようと1990年、私も現地を訪れた。現場である地元は想像以上の過酷さに見舞われていた。
 4年も経っていたものの、広大な被災地は避難したあの日のまま、いえそれ以上に荒れた状態になっていた。住民が避難に及んだ最短は37時間後、別の地域では3日後、7日後、1か月後、それ以降・・・など、さまざまだ。13万5000人が暮らしていた原発から30キロ圏内は危険区域に指定された。その一軒の民家で日めくりカレンダーを偶然に目した。壁に貼られた「1986年5月4日」。こんなに長い間、高放射能のなかで暮らしていたのかと驚愕しながらレンズを向けた。この家族はどこかで無事に暮らしているのだろうかと、その時の写真を見入りながら今も思いを馳せる。
 そのころ、30キロ圏内に戻ってきたお年寄りたちがすでに1300人ほど住んでいた。65歳のある女性は「避難はしたけれど、ふるさとで死にたいから。でも電気も店も交通機関もない。まるで収容所みたい」と嘆いた。彼らは汚染された土地で栽培したものを食べるしかない。そこに、孫たちが遊びにやって来る。「短期間だけだから大丈夫」とお祖母さんは小学生の孫息子を甘えさせながら言っていた。彼は元気に成長しているだろうか。
 その後も何度かチェルノブイリ被災地を訪ねて歩いた。度ごと気にかかったのは、子どもたちの健康状態だ。甲状腺癌は最も顕著に原発事故の後に急増しているけれど、それ以外の癌、貧血や視力の低下も見過ごせないし、下痢、発熱、頭痛、そして心臓疾患などで入退院を繰り返す子どもたちが「増えた」と医師は私に訴えるように話した。特に避難地域では爆発当日、屋外にいたか屋内かで症状に格差が現れたという。低線量汚染地域でも、教員たちが口々に話したのは「免疫力の低下」による影響だった。「風邪をひいてもかつては3,4日で治ったものが1か月もかかる」。またウクライナのある児童施設を訪ねると、生まれながらの障害も以前に比べて激増したと保育士は顔を曇らせていた。
 子どもたちの健康障害は社会や大人のさまざまな身勝手から来ていることは言うまでもない。未来を担う子どもの健康といのちを筆頭にした政策や環境を作らなければ、その国の将来は不安に見舞われる。弱い立場にある子どもを護れば、おのずと大人も護られることになる。チェルノブイリ原発事故は事故の情報公開や責任のあり方、放射能汚染の対策、人びとへの対処の仕方、健康など多義にわたって教訓を残した。それを活かしていくことこそが子どもを健康な成人にするために欠かせないはずだ。
 問題はチェルノブイリにとどまるものではなく、とりわけ「フクシマ」と直面している日本にとって学ぶことが多い。