お知らせ

「身近なところから、科学と平和を」七人委員会が新潟・松之山で創立記念日の講演会

2007年11月27日

世界平和アピール七人委員会は、創立52周年記念日の11月11日、新潟県十日町市の市立里山科学館・越後松之山「森の学校・キョロロ」で、講演会を開催した。
平和と地域、農業、環境の関わりにも注目しようと、同科学館の顧問を務める池内了氏が、メンバーに加わった機会に開くことにしたもので、委員会が大都市以外で講演会を開くのは初めて。所用で欠席した武者小路公秀、土山秀夫の両委員を除き、今年白寿を迎えた伏見康治名誉委員をはじめ、井上ひさし、池田香代子、大石芳野、小沼通二(事務局長兼務)、池内了の全員が参加した。
会場は地元の人たちのほか、北海道や神奈川から駆けつけた人も含めて約100人でぎっしり。標本や写真が展示されたホールで、熱のこもった会になった。

講演会では、テーマは「日本の農業、世界の農業」。伏見名誉委員の挨拶、小沼委員・事務局長があいさつ、井上ひさし氏が講演、大石委員が自らが撮影した世界の農村の写真を見せながら講演したあと、池田、池内氏らがコメントを述べた。
井上さんは、「昭和35年、岩手県が日本で最後に食糧の自給自立を達成したとき、大変なお祝いをした。しかし、日本人が米を食べなくなり、自由化されて、農業者は米では生活できなくなった。農水省は13370円だとしているササニシキが実際には11000になってしまっているという。このあたりの魚沼産コシヒカリも、カリフォルニアでも作れるから、魚沼でできるものの20倍くらいあるのではないか」と切り出した。
井上さんは、棚田が水をたたえていた話やマグロが買い付けられなくなっている話、米国の食糧の話などに言及、「日本人が持っているものは何なのだろうか。憲法、原爆体験もそうだが、いまわれわれ日本人が持っていたものを持ちこたえ、再発見することが求められているのではないか」と結んだ。

続いて話したのは大石委員。会場には、ちょうどこの朝、紫綬褒章を受けたこともあってその活動を紹介する番組が当日NHKテレビに登場したばかり。会場には「アジアの農村風景の写真」も展示された。
大石さんは、「ここ数10年世界の人間、戦争、平和ととり続けてきた。戦争は農村を破壊する。しかも、武器と武器の戦いが終わっても傷跡が残っている」と、写真を見せながら話し、聴衆に感銘を与えた。

このあと、池内委員が「キョロロ」の歴史を語りながら、「科学を身近なものにしていかなければならない。学校や家庭を結んだ人間を育てる場として機能したい。楽しみながら、地域の中から平和を作っていこう」と呼び掛けた。
また池田さんは、「もし世界が100人の村だったら」の経験を語り、世界で核実験が続けられてきた事実を現代アートで表現した、映像作家の橋本公さん(箱根ラリック美術館)の作品を紹介。「核実験がこんなに続いているのか!」と衝撃を与えた。
講演会の後、聴衆との話し合いも行われ、井上さん、池内さんなどが質問に丁寧に答えていた。

200人超す参加者が白寿を祝う伏見康治先生の白寿の会

2007年8月23日


数え年99歳を迎えた伏見康治先生の白寿を祝う会が、3日午後、東京・神田の学士会館で開かれた。伏見先生は1909年(明治42年6月29日生まれで、今年は数えの99歳。世界平和アピール七人委員会の全委員をふくむ、70人あまりの人たちの呼びかけで開かれたもので、会場には広い分野の200人を超す人々が集まった。
会は伏見先生の愛弟子の大塚益比古・元原子力安全研究協会常務理事の司会で進められ、最初に1961年に伏見先生が名大プラズマ研究所の初代所長に招かれたとき名大にいた山本賢三さんと、1983年から参院議員を務めたとき、後半の3年間を同僚として勤めた広中和歌子さんが祝辞を述べた。続いて、伏見先生のあと日本学術会議会長を務めた元国立公害研究所長の近藤次郎さんが乾杯の音頭をとった。

▼山本賢三さん(名大名誉教授)の祝辞
私は7年制の東京高等高校の同窓で、私が尋常科1年生のとき、伏見先生が高等科の2年生くらいだったと思う。指揮者の朝比奈隆も同窓で、そのころから伏見先生の名前は知っていた。確か科学部の雑誌に論文を書かれたり、記念祭の絵を描かれたりしていたことを覚えている。私は電気屋で専門は少し違うが、親しくしていただいた。
プラズマ研究所に来ていただいたのは、先生が「原子力3原則」を片づけられ、関西原子炉問題で苦労された後だったが、はじめて核融合の本格的な研究が始まった。伏見先生が尽力してできあがった臨界プラズマ試験装置は、いまの国際炉につながっている。
伏見先生は新しい物好きで、しかも関心がはっきりしている方だ。自分の関心がないときは居眠りをしているが、オリジナルの話が出ると食いつくように、耳を傾ける。そして判断も速く、はっきりしている。
そんな先生だから「左翼学者」のレッテルを貼られて英国がビザを出さなかったことがあった。中曽根さんは「オポチュニストだ」と言ったから私は反論した。多くの専門を包含したコミュニティを作り、貢献された。お元気で過ごしてほしい。

▼広中和歌子さん(参院議員)の祝辞
1986年、公明党の人が来て「選挙制度が変わったから、出たい人より出したい人、でやりたい。出てほしい」と言われた。私は集団疎開を経験し、米国ではケネディ大統領とも会い、公民権運動に感銘を受けていたから、光栄だと思いお受けした。それで短い期間だったが、参議院でご一緒した。林健太郎さん、田英夫さんなどがいた。
私が関心を持ったのは環境問題だった。伏見先生はCO2の問題について、「世界の7割を占める海がどうCO2を吸収しているかのメカニズムはまだ分かっていないんだよ」と話してくれた。林健太郎先生からは脳死の不可逆性についての話を伺った。
白寿というのはすごいことだ。どうか、これからも伏見先生には社会の指標となってほしい。


この後、懇談に続き、会場を飾った多数の折り紙のバラの花の作者であり、国際的に「川崎ローズ」として知られるこの折り方の創作者でもある徳島の数学者の川崎敏和さんが実演つきでお祝いを述べ、小沼通二さんが記念刊行物の紹介をした。続いて、伏見先生の子ども、孫、ひ孫さんたちの紹介があり、息子さんの伏見譲さんの紹介で伏見先生の99年の歩みを示す写真が会場に映し出された。
そして、長崎から駆けつけた土山秀夫さんが「いまの七人委員会のメンバーはしゃべり出したら止まらない人たちばかりだが、伏見先生はいつも頷きながら聞いていらっしゃって、節目節目に的確にコメントしていただいている。ご高齢で退かれると言うことだったが、私たちは何とかの残っていただきたい、とお願いして、名誉委員と言うことでいつでも出席していただくようにしている。私の専門は医学だが、人間の寿命は医学的には110歳、120歳は珍しくなくなっている。どうかお元気で、いつまでもご指導をお願いしたい」と話した。
最後に、登壇した伏見先生は「こんなに長生きするとは思わなかったので、心の準備をしないまま99歳になってしまった。これからどう暮らしていったらいいかわからないが、いろいろやって、平和運動に関連する仕事が最後の仕事になっている。皆さんのお助けで社会奉仕をしてきたが、能力がなくてあまり役に立っていないことが残念だ。お忙しいところを、集まりくださって、こんな楽しい会を開いてくださって、本当にありがとうございました」と挨拶した。
参加者には、折り紙のバラの花と「生い立ちの記」、「『波打つ電子-原子物理学10話』について」がおみやげに配られた。
この日は、ちょうど東京で開かれる原子核物理学国際会議(INPC2007)の一環として「湯川秀樹生誕100年記念講演会」が開かれていたため、小沼さんから紹介があり、そこに向かう人もあり、記念すべき日となった。

(事務局・丸山重威)