200人超す参加者が白寿を祝う伏見康治先生の白寿の会

2007年8月23日


数え年99歳を迎えた伏見康治先生の白寿を祝う会が、3日午後、東京・神田の学士会館で開かれた。伏見先生は1909年(明治42年6月29日生まれで、今年は数えの99歳。世界平和アピール七人委員会の全委員をふくむ、70人あまりの人たちの呼びかけで開かれたもので、会場には広い分野の200人を超す人々が集まった。
会は伏見先生の愛弟子の大塚益比古・元原子力安全研究協会常務理事の司会で進められ、最初に1961年に伏見先生が名大プラズマ研究所の初代所長に招かれたとき名大にいた山本賢三さんと、1983年から参院議員を務めたとき、後半の3年間を同僚として勤めた広中和歌子さんが祝辞を述べた。続いて、伏見先生のあと日本学術会議会長を務めた元国立公害研究所長の近藤次郎さんが乾杯の音頭をとった。

▼山本賢三さん(名大名誉教授)の祝辞
私は7年制の東京高等高校の同窓で、私が尋常科1年生のとき、伏見先生が高等科の2年生くらいだったと思う。指揮者の朝比奈隆も同窓で、そのころから伏見先生の名前は知っていた。確か科学部の雑誌に論文を書かれたり、記念祭の絵を描かれたりしていたことを覚えている。私は電気屋で専門は少し違うが、親しくしていただいた。
プラズマ研究所に来ていただいたのは、先生が「原子力3原則」を片づけられ、関西原子炉問題で苦労された後だったが、はじめて核融合の本格的な研究が始まった。伏見先生が尽力してできあがった臨界プラズマ試験装置は、いまの国際炉につながっている。
伏見先生は新しい物好きで、しかも関心がはっきりしている方だ。自分の関心がないときは居眠りをしているが、オリジナルの話が出ると食いつくように、耳を傾ける。そして判断も速く、はっきりしている。
そんな先生だから「左翼学者」のレッテルを貼られて英国がビザを出さなかったことがあった。中曽根さんは「オポチュニストだ」と言ったから私は反論した。多くの専門を包含したコミュニティを作り、貢献された。お元気で過ごしてほしい。

▼広中和歌子さん(参院議員)の祝辞
1986年、公明党の人が来て「選挙制度が変わったから、出たい人より出したい人、でやりたい。出てほしい」と言われた。私は集団疎開を経験し、米国ではケネディ大統領とも会い、公民権運動に感銘を受けていたから、光栄だと思いお受けした。それで短い期間だったが、参議院でご一緒した。林健太郎さん、田英夫さんなどがいた。
私が関心を持ったのは環境問題だった。伏見先生はCO2の問題について、「世界の7割を占める海がどうCO2を吸収しているかのメカニズムはまだ分かっていないんだよ」と話してくれた。林健太郎先生からは脳死の不可逆性についての話を伺った。
白寿というのはすごいことだ。どうか、これからも伏見先生には社会の指標となってほしい。


この後、懇談に続き、会場を飾った多数の折り紙のバラの花の作者であり、国際的に「川崎ローズ」として知られるこの折り方の創作者でもある徳島の数学者の川崎敏和さんが実演つきでお祝いを述べ、小沼通二さんが記念刊行物の紹介をした。続いて、伏見先生の子ども、孫、ひ孫さんたちの紹介があり、息子さんの伏見譲さんの紹介で伏見先生の99年の歩みを示す写真が会場に映し出された。
そして、長崎から駆けつけた土山秀夫さんが「いまの七人委員会のメンバーはしゃべり出したら止まらない人たちばかりだが、伏見先生はいつも頷きながら聞いていらっしゃって、節目節目に的確にコメントしていただいている。ご高齢で退かれると言うことだったが、私たちは何とかの残っていただきたい、とお願いして、名誉委員と言うことでいつでも出席していただくようにしている。私の専門は医学だが、人間の寿命は医学的には110歳、120歳は珍しくなくなっている。どうかお元気で、いつまでもご指導をお願いしたい」と話した。
最後に、登壇した伏見先生は「こんなに長生きするとは思わなかったので、心の準備をしないまま99歳になってしまった。これからどう暮らしていったらいいかわからないが、いろいろやって、平和運動に関連する仕事が最後の仕事になっている。皆さんのお助けで社会奉仕をしてきたが、能力がなくてあまり役に立っていないことが残念だ。お忙しいところを、集まりくださって、こんな楽しい会を開いてくださって、本当にありがとうございました」と挨拶した。
参加者には、折り紙のバラの花と「生い立ちの記」、「『波打つ電子-原子物理学10話』について」がおみやげに配られた。
この日は、ちょうど東京で開かれる原子核物理学国際会議(INPC2007)の一環として「湯川秀樹生誕100年記念講演会」が開かれていたため、小沼さんから紹介があり、そこに向かう人もあり、記念すべき日となった。

(事務局・丸山重威)