今月のことばNo.13

2015年7月1日

軍学共同への科学者の意識

池内 了

 最近、原書名が『第3帝国に仕えて』という本を翻訳することになった。ナチスドイツ時代における物理学者の政治や戦争への関わりを書いた本で、軍学共同反対の運動をやっている今の私にとって、いろいろと考えさせられることが多くあった。
 この本には、伝統主義者で法令重視の愛国者マックス・プランク、戦争を科学のために利用しようとしたウェルナー・ハイゼンベルグ、プラグマティストで融通無碍なピーター・デバイという3人のノーベル賞受賞者が登場する(プランクとハイゼンベルグはずっとドイツに留まり、デバイは1940年にアメリカへ移住した)。それぞれが異なった、しかしそれぞれの個性に合ったナチス体制への協力行動をとるのだが、3人に共通している要素があった。いずれもが「科学の発展のため」という理由づけをし、それ故にいずれもが自分の行動は「非政治的である」と自認しており、ナチスを助ける意図は更々なかったという意識を持っていることである。だから、戦後になって反省すべき言われはないとし、事実3人の誰も反省の弁を語っていない。そして、ドイツの科学者のほとんどは多かれ少なかれ3人の誰かと共通した考えを持っており、やはりナチス体制を支えたことや戦争協力について反省のないまま戦後を迎えることになったのである。そのためか、NATO軍への協力など今も軍学共同が続いている。
 これに対して日本では、明治維新以来、科学者が国家の富国強兵と戦争への協力を行なってきたことを反省して1950年には日本学術会議では戦争に協力をしない決議を出し、それを守ってきた。日本国憲法の平和主義の精神が科学研究の場にも生かされてきたのである。しかし、ここにきて雲行きが怪しくなっている。安倍政権の後押しを受けて防衛省が軍学共同に積極的に乗り出しており、大学や研究機関の研究者がそれに応じそうな雰囲気が非常に強いからだ。その理由として、軍学共同は「科学を発展させる」とし、自分は純粋に科学のことを考えていて政治的な意図は全くなく、ただ研究費を稼ぐためだけであるという返事が返ってくる。この態度はナチス時代の科学者と本質的に変わりなく、科学者という存在は時代を経ても変わらないのかと嘆息せざるを得ない。
 何のための、あるいは誰のための科学か、を考えて研究する科学者を育てるためにいかなる手立てがあるかをじっくり考えねばならないと思っている。