新国立競技場という悪夢
私が大阪の人間だからではないと思う。新国立競技場をめぐる一連の顛末にはらわたが煮えくり返っている。国際コンペで決まった建物のデザインが発表された3年前、1300億円という建設費に、一生活者として白々とした虚脱感しかやって来なかった記憶があるが、その後、実際には3000億円かかるといった話や、日本の技術をもってしても困難な屋根の構造のために、オリンピックに間に合うかどうか分からないといった話が漏れ伝わってくるにつれ、虚脱感は不信感に変わり、ついには怒りに変わった。
2015年7月現在、多方面からの批判を浴びた末に新競技場はサイズを少し縮小し、開閉式の屋根を後回しにするなどして建設費を2520億円に圧縮した上で正式に建設が決定されたが、ここへ来て明らかになったことが三つある。一つは、いつものことながら誰が最終的な責任を取るのかが、徹底的に不明のままに置かれていることである。いまからデザインを変更する時間的余裕がないという理由で、ここにいたる関係者の不作為や手続きの不透明の一切を棚に上げ、ほんとうに建つのかどうかわからないものの建設にGOサインが出た格好である。これについて、国民の八割が「建設費が法外すぎる」「将来の赤字を誰が穴埋めするのか」と眉をひそめているが、国民には計画を阻止する具体的な手立てがない。そのことに、利権政治を繰り広げている当の政治家たちがあぐらをかいているのが手に取るように分かる、なし崩しである。
明らかになったことの二つ目は、競技場のデザイン公募に当たって、主催者側が設定した諸条件のなかに「このデザインなら建設コストはいくらになる」という基本中の基本の概算が含まれていなかったらしいことである。政府の公式の説明はないものの、そう考えるほかはない二転三転である。振り返るに、半世紀前の東京オリンピックも、高度成長期の始まりを告げる輝かしい成功の裏には、乱開発や公害といった負の側面に加えて、予算面での杜撰さや綱渡りもあっただろう。オリンピックのような国家的事業には、そうした不透明さや予想外のトラブルはつきものかもしれない。しかしそうであればなおさら、過去の経験と反省を活かして、不透明さや予測不能な事態を減らすべきところ、21世紀に二度目のオリンピックを迎えるに当たっての、新国立競技場建設の顛末の、このいい加減さ、この杜撰さはどうか。
明らかになったことの三つ目は、キールアーチと呼ばれる屋根の構造がほんとうに建設可能なのか、はっきりしないことである。日本の技術だけは世界に誇れると信じ、それをアイデンティティにしてきた私たち日本人にとって、常軌を逸した建設費の是非以前に、この不信感こそ一番こたえている。政治家の都合で2019年のラグビーW杯に間に合わせるために無理な工事をし、いつの日か首都圏直下型地震で崩落するという悪夢が見えるのは私だけだろうか。そんな途上国並みの事態すら想像しなければならないほど、この国のあらゆる制度や技術、そして公共精神への信頼が失われているということである。
否応なしに、福島第1原発の無残な事故の姿が思い出される。