日の丸・君が代の強制と思想・良心の自由
東京都教育委員会は、2003年10月23日に説明会を開き、都立学校宛の「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」と題された「通達」と、これに関する「実施要領」を配布した。「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」では、「国旗と都旗を正面に掲揚する。国歌斉唱はピアノ伴奏で行う」、「教職員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」、「児童・生徒が正面を向いて着席するように設営する」などとこと細かに身体的統制を求めている。また、「10・23通達」では、「国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われることを、教職員に周知すること」と「処分するぞ」との規律的警告まで書き込まれている。これに対して直ちに訴訟が起こされ、長期にわたって憲法19条をめぐる裁判が行なわれている。
入学式卒業式等の儀式的行事における「日の丸・君が代」が集団的な規律の強化を伴って強制されるときは憲法19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という規定に反する。これまでの多くの判決では、この点が理解されていない。この場合、憲法19条の規定は、憲法20条2の「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」と密接に関わり合うものである。このことを理解するには、戦前における国家神道や宗教的天皇崇敬、あるいは神権的国体論の強制について思い起こす必要がある。戦前の天皇崇敬においては宗教的でないとの建前がある場合でも、実際には宗教的な含みをもって機能していた。そのため「宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加すること」と同等の「強制」が生じやすかった。また、1930年代以降の全体主義化する時代には、全体主義的な天皇崇敬が国民生活をおおうようになった。「宗教的」であることによる強制とともに「全体主義的」であることによる強制が重なっていった。
御真影への拝礼と教育勅語の拝聴を中心とする学校儀式は、宗教または宗教に類するある種の「思想や信念に基づく行為、祝典、儀式又は行事に参加すること」を「強制」する場であった。国家神道や天皇崇拝の「宗教性」と「全体主義」の双方が「思想及び良心の自由」と「信教の自由」を著しく制約した。これは無謀な戦争を続け、国内外の多くの人命を奪った宗教的天皇崇敬体制(国家神道体制)の基盤を形作ったものだ。
戦後の入学式卒業式等の儀式的行事において日の丸・君が代が個々人の思想及び良心の自由を奪う、そこまでの力をもっていると受け取るかどうかは、場合によって、また人々によって異なる。そのことを踏まえて各学校での柔軟な運用が行われていた。ところが、東京都の10・23通達とこれに基づく校長の職務命令により、入学式卒業式等の儀式的行事は宗教や全体主義に類するある種の「思想や信念に基づく行為、祝典、儀式又は行事に参加すること」の強制として受け止められるものとなった。天皇崇敬と日の丸・君が代の歴史的な背景を理解している場合にそう感じるのは自然である。これは学習指導要領が、集団規律の強化の根拠として用いられることによって生じた事態である。
このような教育現場への抑圧的な介入が行われたのは東京都だけではなく、大阪市に対しても類似の訴訟が生じている。日の丸・君が代が集団規律の強化を意図して抑圧的に用いられると、良心の痛みを感じる人が多数生じる。日の丸・君が代そのものに反対しているのではない多くの人々も、そこに平和を脅かす力による支配を感じ取る。学校儀式での日の丸・君が代の強制が問われているのは、学校における基本的人権の抑圧を進め、平和の基盤を掘り崩すものになりかねないからである。