イギリスの騒動に思う
先月、親しい友人たちと珍しくプライベートな旅行に出かけたのだが、みな現役の仕事人間ばかり。出発当日はイギリスの国民投票の開票日と重なり、朝から旅路そっちのけでスマートホンの速報に見入った末に、昼ごろBBCが離脱派の優勢を伝えたときには、みな呆然自失したものだった。
イギリスがEUから離脱するなんて――――。よもやほんとうに起きるとは思わなかったことが起きたとき、イギリスの外ではこうして多くの人がただただ絶句した。そして、最初の衝撃が去ったいまは、この先世界が向かってゆくだろう未来の暗い予感に押しやられながら、誰もが為すすべもなく当面の混乱を見守っているのである。
EUの一員でいることのメリットとデメリットを冷静に秤にかけたなら、離脱という答えが出るはずもないが、それでも現実の国民感情はきれいに二分され、最終的に離脱が残留を上回る。これを「衆愚」やポピュリズムと呼ぶのはたやすいけれども、そうした間尺に合わない国民感情の噴出は、いまやイギリスに限った話ではない。移民の増大による社会不安と、EU域内の種々の規制への不満は、フランスの国民戦線のような極右勢力の伸張というかたちで顕在化しており、それが域内各地の独立運動の機運にも火をつけているのだ。
そこには弁舌巧みに人心を扇動する政治家や指導者がおり、それに躍る人びとが従来の常識では考えられない極端な結果を生み出してゆくのだが、それはアメリカ大統領選挙の共和党候補トランプ氏や、フィリピンの新大統領ドゥテルテ氏、そしていくらかは日本の安倍政権も同様だろう。そこで否定され、排斥されるのは既存の権力構造とエスタブリッシュメントであり、人類全体を視野に入れた思考や理性、忍耐は退場させられる。
私たち日本人をふくめ、2017年の世界はこうして確実に冷静さと忍耐を失いつつあるのだが、その根底には経済の低迷と民主主義の行き詰まりがあり、その結果としての生活のしにくさや将来不安、そして難民問題に代表される社会の不安定化があると言われる。そしていずれの問題も、有効な解決策が見つからないまま、企業家や投資家は当面の利益の確保に走り、抑圧された生活者たちのなかに、不満のはけ口を求めてポピュリストの扇動に熱狂し、足下の不平等をうみだしている社会の転覆に喜んで荷担する者が増えているのである。
しかも、こうした扇動ではおおっぴらに嘘が語られる。先般のイギリスの国民投票でも、離脱の旗を振った元ロンドン市長らが離脱の根拠としてきたEUの分担金について、その金額自体が誇張だったことを選挙直後にあっさり認めるという無責任ぶりだった。
しかし古今東西、政治とはそもそも、そんなものだったのだろう。為政者は己が欲望のために堂々と嘘を語り、その嘘に躍る民衆がおり、気がつけば誰も想像もしなかった道へと踏み出している―――世界の歴史はこうしてつくられてきたのかもしれない。歴史を動かすのは高邁な意志や理想ではなく、欲望に躍ったり躍らされたりする人間の本態なのかもしれない。イギリスの騒動を眺めながら、つくづくそんな思いに駆られたことである。
賢くありたいと願いつつ、けっしてそうはなれないのが人間であるなら、せめて、何事においても慎重でありたいと思う。