今月のことばNo.12

2015年6月16日

山田監督と井上さんと私

土山秀夫

 昨年春、映画会社の松竹から連絡があり、山田洋次監督の依頼を受けた脚本家が私に会いたい旨が伝えられた。原爆被爆時の長崎医科大学の惨状や、敗戦後数年間の庶民生活などについて教えてほしい、とのことであった。
 山田洋次監督といえば、寅さんを主人公にした「男はつらいよ」シリーズで余りにも有名であるが、「幸福の黄色いハンカチ」「たそがれ清兵衛」「母べえ」「小さいおうち」等々、日本を代表する良心派の映画人である。興味を覚えた私は喜んでお会いすることにした。来崎した平松恵美子さんは、私の話を熱心にメモし、テープにも取った上、8月9日の追悼平和祈念式典の当日、山田監督もお忍びで参列するので、私ともぜひお会いしたいとの直筆のメッセージを渡された。お忍びというのは、新作映画を正式に公表するまでは内密にしておきたいからだという。
 「井上ひさしさんは、長崎での講演会で初めて『母と暮せば』と長崎を舞台にした戯曲のタイトルを口にされたのだったのですね」穏やかな口調で山田監督は言った。確かにその通りだった。あのとき井上さんは、自分は「父と暮せば」で広島を描き、未完成ではあるが「木の上の軍隊」で沖縄を舞台に描いてきたので、今度は長崎を舞台にした「母と暮せば」を書きたいと思っている、と満員の聴衆に向かって言ったのだった。
 講演終了後、井上さんが博多まで列車で行くとのことだったので、見送りを兼ねて、駅の傍のホテルで会食した際、私は「母と暮せば」の構想を尋ねてみた。井上さんは私たちの七人委員会の例会時と同じく、太い眉の下で眼鏡の奥の目をパチつかせながら、「いや、まだ考えていません。これからです」と答えた。そして同様のことを三女・麻矢さんにも伝えていたのだろう。井上さんが亡くなられて後、山田監督は麻矢さんがこの作品の映画化を望んでいることを知り、進んで引き受けることになったという。つまり井上さんの意思を引き継いで、監督が創作し、映画化を試みるわけである。
 昨年12月の公表までの間、松竹からは企画関係の人たちと照明など小道具関係の人たちが、4、5名ずつ別々に私の所にやって来て被爆前後の市街や建物の状況、医学生の服装や食料、闇市などについて質問し、熱心にペンを走らせていた。12月17日の記者会見では、原爆投下から3年後の長崎で暮す助産婦の母親(吉永小百合さん)の前に、原爆で亡くなった息子(医科大学生、二宮和也さん)の霊が現れる物語で、息子の元恋人を黒木華さんが演じることを発表した。公開は松竹120周年記念作品として今年の12月12日とされ、すでに撮影に入っていて、近く長崎ロケが行われる予定になっている。
 山田監督と今年1月にお会いした折、「先生からお聞きしたお話は、ストーリーのあちこちに借用させてもらいました」と笑いながら告げられた。
 私にとって思いがけなかったのは、今年4月3日に主演の吉永小百合さんと直にお目にかかれたことだった。二宮和也さんも一緒に原爆資料館に着くと、山田監督が私に向かって、「何回も繰り返させて恐縮ですが、この2人は初めてなので被爆直後の状況などを説明してやって下さいませんか」と求めた。約20分もの間、吉永さんは真剣なまなざしで聞き入ってくれた。原爆詩の朗読でも有名な彼女は、さすがに関心の持ち方が違うのであろう。それにしても若い頃の清楚さは少しも失われていないばかりか、とても70歳を超しているとは信じ難いものがあった。資料館の展示場に歩を進めようとしたとき、彼女が急に松竹の関係者に対して言った。「せっかくの機会ですので、先生とご一緒に記念写真を撮りましょうよ」。この細やかな心遣いに、また一人“サユリスト”が増えたことは確かだった。