お知らせ

「核抑止」で長崎講演会

2013年12月12日

長崎大学核兵器廃絶研究センターなどと共同

世界平和アピール七人委員会は、2013年度の講演会を11月30日(土)、長崎市の長崎原爆資料館ホールで開かれた。
テーマは、共催の長崎大学核兵器廃絶研究センター、核兵器廃絶長崎連絡協議会との協議で決まった「核抑止論と世界」で、講演とシンポジウムが行われた。
「核抑止論」は、相手に耐えがたい報復力の脅しや警告を示すことで恐怖心を起こさせることで、攻撃を思いとどまらせ、自国の安全を図ろうという考え方。米、ロ、英、仏、中の5核大国のほか、核保有国のイスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮や、米国の「核の傘」の下で平和と安全を保っている、とする日本なども、この考え方に立っている。
今回の講演会では、この核抑止論に切り込もうと、長崎大学核兵器廃絶研究センター、核兵器廃絶長崎連絡協議会との共同主催で、委員のほか、長崎大学核兵器廃絶研究センターの梅林宏道センター長も講演、パネルディスカッションにも加わった。
会の冒頭では11月25日に亡くなった委員の辻井さんの追悼が述べられた。

▼核の傘は狭まっている・・・

最初の講演は土山秀夫委員。.土山さんは「日本は核廃絶をいいながら、米国の『核の傘』の下にある。米国はこの『拡大核抑止』を提供してきたとしており、この核抑止論の打破なくして、核廃絶はない。1969年の秘密文書では『当面の間、日本の核武装はないが、今後、核兵器製造についての技術的、経済的ポテンシャルを確保する』とし、この方針は引き継がれている。その後、日本政府は核の傘について米国に要請をしたりして、事実上、自分が頼み込んで核の傘をいっているというのが現実だ」と強調した。
そしてさらに、「いま国民の70-80%が核の傘は必要だといっている。不安解消のためには『北東アジア非核兵器地帯構想』がある。核の傘から脱却するために、寄付を募って国民に構想を広く知らせる新聞の全面広告などを考えたらどうだろうか」と提案した。
つづいて、梅林宏道氏が「進行中の国際交渉に見る抑止論」と題して講演した。梅林さんは米国での核抑止論と同盟国での拡大抑止論の歴史をたどりながら、「米国の核政策はオバマ政権の下で変化している」と説明、「オバマ政権は今年6月、初の核政策指針を発表、現在の核の脅威は最も差し迫った極限的危険は核テロリズムだとし、主たる脅威には核兵器は無用、有害だと考えている。ジュネーブの『多国間核軍縮交渉を前進させるための国連作業部会』(OEWG)は非核兵器地帯設立に向けて適切な行為をとるべきだとする勧告文書を出した」と報告、「拡大核抑止論への包囲網は狭まっている」と強調した。 講演の最後に武者小路公秀委員が「核廃絶はなぜまだできないのか」と題して講演した。武者小路さんは、1648年のウエストファリア条約以来の「防衛」体制について、歴史をたどり、覇権国によっての抑止の誤算を説明しながら、「私たちは、これから、人民の『安全』を中心に発想転換しなければならない。科学と技術を混同してはならない。原爆と原発の全廃は人類の倫理的な決断で、『核廃絶』は人類の知恵の選択だ」と強調した。

▼「科学と技術」にも課題

講演の後、講演した3人に、池内了、池田香代子、大石芳野の3委員が加わって、小沼通二委員の司会でパネルディスカッションした。
池内さんは「核廃絶問題もいまの課題と結びつけた上で、いまの政権の姿勢に問題提起していかなければ、と思っている。武者小路さんが、科学と技術の分離が必要だといわれたが、科学に属しているものも『便利』を追求するものではない。世界平和と科学と技術の分離を突き詰めて考えてみたい。秘密保護法の問題など日本は遅れている」と指摘した。 また、池田さんは、「講演を聴いて思うのは、核抑止の考え方では核廃絶は難しい、ということだ。核抑止論は『やったらやり返す世界』だからだ」と話した。
大石さんも「話を聞いて改めて日本は遅れている、と思った。日本の場合、広島、長崎のほかに沖縄を見逃せない。ケネディ新大使へのフィーバーにも違和感を持っている。秘密保護法など、実に問題だ」と話した。
こうした中で、梅林さんは「科学と技術の分離は必要だ。科学にもっと懐疑的になって、社会的に考えなければならない。大変な費用がかかる最先端科学の問題もある」、武者小路さんは、「米国にもオバマの米国もCIAの米国もある。議会もコントロールしたり論文も市場化されていたりする。全部まとめて考え、人間らしい世界にしなければ…」、土山さんも「核の問題は、安保にもなく、ガイドラインの中に一行あるだけで、北東アジア非核化構想と切り離すことは可能だ。外務省と話すと、必ず出てくるが難しいという。これを突破しなければならない」などと議論が闘わされた。
最後に司会の小沼さんが「いま大切なのは、やっぱり広島、長崎の実相を世界に広めることではないか。いま、最初は物理学者が8割を占めていたパグウオッシュ会議も、世代交代して社会科学者が増え、マジョリティになっている。先日開かれた年次大会で、2015年の年次大会は長崎でということが決まった。『難しい。ネックがある』と言っている限り前には進まない。一人一人できることは何か考えていかなければならない」と締めくくった。
最後に「核廃絶長崎連絡協議会」の調漸(しらべ・すすむ)会長が「難しい問題は語らない、という傾向が強いが、そうではいけない、ということが言われた。学生諸君も行動的になってきた。これからもいろいろ取り組んでいきたい」と閉会の辞を述べた。
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なお、長崎新聞12月1日付は、この集会を「北東アジア非核で勧告文 軍縮諮問委 国連事務総長に」の見出し、カラー写真入りで梅林センター長が述べた「国連の軍縮諮問委員会は、国連事務総長に対し、北東アジア非核兵器地帯設立に向けて、適切な行動をとるべきだ、とする勧告文書を出した」とニュースにした。

(了)

資料「追悼 七人委員会と辻井喬さん」(20131130tujii.pdf)

秘密保護法に反対のアピール 改憲の動きにも警鐘

2013年12月12日

世界平和ピール七人委員会は、11月25日、国会で審議中の特定秘密保護法案について、「『特定秘密保護法案』の廃案を求める」とのアピールを発表した。そこでは、「『特定秘密保護法案』は、その内容も審議の進め方も、民主主義と日本国憲法にとっての脅威であると危惧し、本法案を廃案とする」ことを求めている。
 七人委員会は、安倍政権の「改憲路線」に危機感を抱いており、6月28日には、「日本国憲法の基本的理念を否定する改定の動きに反対する」とのアピールを出している。

辻井喬さん死去

2013年12月3日

世界平和アピール七人委員会の委員、辻井喬さんは11月25日午前2時、肝不全のため死去されました。86歳でした。
辻井さんの父は、西武鉄道創始者の堤康次郎氏。セゾングループや西武百貨店を育て上げた経営者・堤清二氏として知られる一方、辻井喬のペンネームで、詩人、作家として活躍した。2010年9月6日から、亡くなるまで世界平和アピール七人委員会の委員を務めた。委員としての辻井さんは、2010年11月10日の明治大学での講演会で「東アジアの平和構築」と題して講演して以来、世界平和のために積極的発言を続けた。
七人委員会は、2011年7月にアピール「原発に未来はない」を発表、東京・有楽町の外国人特派員協会での記者会見に出席、積極的に発言した。昨年11月10日の福島・南相馬市での講演会では「中央集権の時代から地方自治の重視へ」と題して講演した。最近も、入院中にも病院から小沼事務局長に電話されたりした。最近の「『特定秘密保護法案』の廃案を求める」のアピールにも賛同の意思を表明した。
世界平和アピール七人委員会は、11月30日、長崎市で講演会を開いたが、席上、小沼通二委員・事務局長が、七人委員会での辻井さんの活動を報告、故人を偲んだ。

「特定秘密保護法案」の廃案を求めるアピールを発表

2013年11月25日

 世界平和アピール七人委員会は、国会で審議中の特定秘密保護法案について、25日、廃案を求めるアピールを発表しました。
 世界平和アピール七人委員会は1955年、世界連邦建設同盟理事長、下中弥三郎(平凡社社長)の提唱で、植村環(日本YWCA会長)、平塚らいてう(日本婦人団体連合会会長)、湯川秀樹(ノーベル賞受賞者、京都大学教授)らによって結成されました。
 その後、メンバーは入れ替わりましたが、日本の知識人として、人道主義と平和主義に立って、不偏不党の立場から、核兵器の廃絶、平和憲法の精神など世界の平和のための発言を続けてきました。
 現在のメンバーは、武者小路公秀(大阪国際平和センター会長)、土山秀夫(長崎大学名誉教授)、大石芳野(写真家)、池田香代子(翻訳家・作家)、小沼通二(慶応大学、武蔵工業大学名誉教授)、池内了(総合研究大学院大学教授)、辻井喬(詩人、作家)の七人。
 今回のアピールは、発足から、110回目のアピールにあたります。

 世界平和アピール七人委員会事務局
 なお、問い合わせ、連絡先は、小沼事務局長まで。
 FAX:045-891-8386 メール:mkonuma254@m4.dion.ne.jp

2012年講演会「福島の人びとと共に」のお知らせ

2012年10月29日

日時:2012年11月10日(土)15時~18時(開場14時30分)
会場:福島県南相馬市 サンライフ南相馬 集会室

入場無料

プログラム
・辻井喬「中央集権の時代から地方自治の重視へ」他
・大石芳野「福島の人びとを撮りつづけて、思う」
・小沼通二「原発と核兵器の時代を超えて」
・パネル討論「あらためて原発を考える」

世界平和アピール七人委員会が、「原発のない世界」を求めてアピール

2011年9月7日

7月11日、外国特派員協会で発表  日、英、仏、独語で
世界平和アピール七人委員会は、東日本大震災から4カ月となる7月11日、日本外国特派員協会(東京・有楽町)で記者会見し、「原発に未来はない 原発のない世界を考え、IAEAの役割強化を訴える」と題するアピールを発表した。アピールは日、英、仏、独語で、日本と世界の市民、リーダーに呼びかけている。会見には池田香代子、池内了、小沼通二、武者小路公秀、辻井喬の5委員が出席し、記者たちの質問に答えた。

発表されたアピールでは、「私たちは、全世界の原子力発電所すべての廃止を決定すべきだと考える」と呼びかけている。特に日本においては、活断層上の原発の即時停止、複数の原子炉を持つ発電所の規模縮小などを求めた。さらにエネルギー政策の「小型化、分散化、多様化」への転換を提起し、自然エネルギー開発や省エネルギーの推進を促した。IAEAと加盟国に対しては、原子力の軍事転用に限らず大型施設の情報把握を強め、原発事故発生時には国際専門家チームを組織して主体的に収束に努めるよう希望した。

講演会&シンポジウム in 篠山

2011年9月7日

講演会&シンポジウムin篠山 世界平和アピール七人委員会の2011年講演会は、委員会創立者であり、世界連邦の提唱者でもあった下中弥三郎(元平凡社社長)の没後50年を記念して、下中弥三郎の生まれ故郷、兵庫県篠山市で開かれることになりました。
主催は七人委員会と下中記念財団、篠山市の実行委員会、市や市教育委員会も共催します。
講演会は、「篠山で考える日本と世界」と題して、11月12日(土)午後1時30分~5時、篠山市民センター・多目的ホール(篠山市黒岡191)で。また、「地域力を強める ―これからの日本― 」と題するシンポジ ウム が、翌13日(日)午前9時30分~12時、篠山市立丹南健康福祉センター(篠山市網掛301)で行われます。
これらの企画参加者は、事前申し込みが必要です。篠山市のホームページをご覧ください。
篠山市のホームページ(世界平和アピール七人委員会講演会&シンポジウムin篠山)

下中弥三郎は幼くして父を失い、独学で学んで教師となり、平凡社を創業しました。篠山は瀬戸、常滑、信楽、備前、越前などと並ぶ「日本六古窯」の一つ「丹波焼」の里。

講演会の前日11日には、篠山市教育委員会主催の学校行事として、地元、今田小学校5年生から中学校3年生までの児童・生徒全員を対象とする池田香代子委員と小沼通二委員、弥三郎の孫の下中美都による講演会が開かれます。保護者や一般市民の参加も可能です。13日午前には、地元・今田の「やさが塚」での記念植樹、また、11月上旬からは、立杭陶磁器協同組合主催で立杭の「陶の郷」で下中弥三郎作の陶芸品などの展示、10月中旬から下中記念財団主催で下中弥三郎の出版と教育助を紹介する篠山市立中央図書館での展示などの関連記念行事が計画されています。

講演会
2011年11月12日(土)午後1時30分~5時
篠山市民センター・多目的ホール

シンポジウム
2011年11月13日(日)午前9時30分~12時
篠山市立丹南健康福祉センター

ちらし(20111112.pdf)

2010年講演会「武力によらない平和を」に350人 井上さんの「思い」引き継ぎ、辻井喬さんも初参加

2011年3月10日

世界平和アピール七人委員会の2010年の講演会が、2010年11月12日、東京・お茶の水の明治大学リバティタワーで開かれた。総合タイトルは、「武力によらない平和を 日米安保・沖縄・核」。
明治大学軍縮平和研究所が共同主催し、準備や当日の進行を同研究所の院生ら若い力が支え、参加者は、約350人。4月に亡くなった井上ひさし委員の思いを次代へ引き継ぐ願いも込めた講演会で、新しく加わった詩人で作家の辻井喬委員も、「東アジアの平和構築」をテーマに講演した。(詳細はこちらで)
講演会後には、神保町のレストラン「アミ」で懇親会を開き、約50人が参加、夜遅くまで講演会の盛会を祝った。

→ 2010年講演会

辻井喬さんが七人委員会に参加

2010年10月1日

井上ひさしさんが、さる4月9日に亡くなられた後、1人欠員になっていた委員に、詩人で作家の辻井喬さんが9月6日に参加されることが決まりました。
辻井さんは1927年東京でお生まれになり、日本ペンクラブ理事、日本文藝家協会副理事長、日本中国文化交流協会会長をされています。詩集に『群青、わが黙示』(高見順賞受賞)、『鷲がいて』(現代詩花椿賞、読売文学賞詩歌俳句賞受賞)など、小説に『虹の岬』(谷崎潤一郎賞受賞)、『父の肖像』(野間文芸賞受賞)、『茜色の空』など、回顧録『叙情と闘争』などがあります。2006年には第62回恩賜賞・日本芸術院賞を受賞されています。詳しくは委員のプロフィールをご覧ください。