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今月のことばNo.22

2016年2月9日

自然の怒り

池辺 晋一郎

 あまりに大きな災害や事件があると、それまで沸騰していた話題が消滅してしまうことがある。あの「3・11」で立ち消えになってしまった報道があった。立ち消えになったことに気がつかなかった人もいるかもしれない。
 「3・11」の1カ月半前、2011年1月27日、霧島連峰の新燃岳が52年ぶりに噴火。かなり騒がれた。が、東日本大震災が起きたとたん全く報道されなくなり、ずいぶん経って思い出したときには、もう噴火はおさまっていたようだった。
 新燃岳はおさまった…。しかしあちこちで次々と火山が噴火しているではないか。休火山と考えられ、よもや火を噴くなどと思いもしなかった山でも起きている。2014年9月27日午前11時52分の御嶽山噴火にびっくりした人は多いだろう。直前まで噴火予報など全くなかったから、たくさんの登山者がいた。いきなりの噴石飛散を防ぐ術(すべ)はない。岩の陰に避難しても、噴石はウシロから飛んでくるかもしれない。死者58名、負傷者69名、行方不明5名(2015年8月現在)という犠牲者の数は甚大。火山噴火による死者数としては戦後最大になった。
 2013年11月の小笠原諸島西之島の噴火もすごい。島がどんどん大きくなっている。14年6月の鹿児島県口永良部島の新岳も大噴火で、翌年5月には全島民が今を離れなければならなかった。
 日本では、この2年ほどだけでも、噴火警報で終わった例も含めれば、草津白根山、九州の阿蘇山、山形・福島県境の吾妻山、スキーのメッカ・蔵王山、浅間山、箱根山、北海道・雌阿寒岳、鹿児島の桜島、霧島連山の硫黄山…。全国各地ではないか。
 もっと前だが、九州は雲仙・普賢岳の90年11月17日の噴火が記憶に鮮明。198年ぶりの噴火だった。翌年2月に再噴火。6月には土石流、つづいて火砕流が発生し、多くの人が亡くなった。ずっとあと「ながさき音楽祭」の仕事でしばしば同地を訪れた僕は、火山灰に埋もれた家々や焼けただれた学校跡を目にし、噴火の威力をまざまざと見せつけられた。
 海外まで眺めれば、20世紀最大の噴火だった91年フィリピンのピナトゥボ、2010年アイスランドのエイヤフィヤトラヨークトル、同年インドネシアのシナブン、15年チリのカルブコなど、枚挙に暇がない。アメリカの有名な国立公園イエローストーンの地下にはスーパーボルケーノという超巨大火山がある由。もし大噴火を起こしたら、人類滅亡の危機とまで言われている。
 今、「地球の歴史から見て短いサイクル」すなわち約1万年以内の噴火形跡のあるものはすべて活火山と呼ぶ。この結果、日本の活火山は70年には77だったが、現在110。休火山、死火山という分類はなくなった。遠く巨大な視座からは、人類の争いはコップの中の嵐に見えるだろう。争いに明け暮れていると、自然の怒りが巨大化するかもしれないぞ。
(「うたごえ新聞」2016年1月25日付、2454号、「空を見てますか」994回から転載)

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 これは、週刊の連載エッセイの転載で、火山の話に絞っていますが、究極では原発に関わるものと考えています。地球上のどんな地点でも地震の可能性があると思いますから、原発をやめることはすべての国において肝要なことではないでしょうか。

今月のことばNo.21

2016年1月1日

「母と暮せば」と長崎医科大学

小沼 通二

 山田洋次監督の「母と暮せば」の上映が昨年末の2015年12月に始まった。この映画のもととなった「父と暮せば」の井上ひさしさんは、わたくしたち七人委員会の仲間だった。またこの映画作成に協力したとして、長崎市、長崎大学、長崎原爆資料館に続いて、16人の個人名が挙げられているのだが、その筆頭は七人委員会の土山秀夫さんであり、かねてから親しい朝長(ともなが)万左男さん(日本赤十字社長崎原爆病院名誉院長)、調漸(しらべ・すすむ)さん(長崎大学副学長)の名前もある。3人とも医学者である。
 ところでわたくしは、一昨年11月から昨年11月までの間に長崎に3回行く用事があった。長崎にはそれ以前に何度も行ったことがあるのだが、昨年8月から11月にかけて、被爆直後の医師たちの詳細な記録をいくつも読み、土山さんからも被爆後のご経験を改めて詳しくお聞きし、きわめて困難な中での献身的な救護活動の実情を思い起こしながら、爆心地の周囲の丘を歩くという機会を得た。
 長崎に投下されたプルトニウム爆弾は盆地の上空500mでさく裂したので、周囲の丘は遮るものなく直撃された。平和公園にある平和祈念像は北北東の丘、長崎原爆資料館と国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館は南南東すぐの丘にある。わたくしは、昨年10月、爆心地から西500mの丘の上にある市立城山小学校の遺構として保存されている被爆校舎を訪ねた。この小学校の児童は1400人が死亡し、翌年の卒業式に参加できた卒業生は14人だけだったという。東に戻り、爆心地を通って東北東の丘にある浦上天主堂を再訪してから、東南東500mの長崎大学医学部のキャンパスに行った。ここが被爆当時の長崎医科大学であり、ほとんどが木造校舎だったため全壊全焼、授業中の1,2年生は全滅、学生・教職員890名ほどが死亡した。「母と暮せば」は、母と2人で暮らす長崎医大学生の息子の8月9日朝の変わりのない登校と、授業が始まった階段教室、それが瞬時にして消滅するところから始まる。
 わたくしが、長崎医科大学の跡をぜひ訪ねたいと思ったのは、すでに述べたように、被爆直後の医師たちの献身的な活動を知ったからだった。9月までに読んだのは、① 調來助・吉沢康雄『医師の証言 長崎原爆体験』(東京大学出版会、1982年)、② 『長崎医大原子爆弾救護報告』(朝日新聞社、1070年)、③ 『原子爆弾災害調査報告書 総括編』(日本学術振興会、1951年)、④ 『原子爆弾災害調査報告集』第一分冊(日本学術振興会、1953年)などである。①は長崎医大付属病院で被爆し、被爆死した病院長の後任となって救護と大学再建に多大の努力をした調來助教授(調漸さんの祖父)からの聞き書きであって、付録に詳細な被爆者調査結果がついている。②は長崎医大物理的療養科の永井隆助教授のグループの救護活動報告、③、④は日本中の学界の人たちがそれぞれ分析した結果をまとめたものであり、1945年11月と1946年2月の報告会の速記録もついている。①の付録は、医師数人と学生50人を組織して10月下旬から11月上旬という短期間に、印刷させた調査票に記入していく形で5000人の被爆者の調査を実施し、調教授が後遺症に苦しみながら一人で約1年かけて統計的分析を行った貴重な医学報告書である。土山さんもこの調査に協力した一員だった。
 11月には、長崎大学医学部構内にある原爆医学展示室を案内してもらい、原爆後障害医療研究所に丁寧に整理して保存されている1945年の記入済調査票の原本まで見せていただき、粛然とした思いだった。この時に⑤ 泰山弘道『完全版 長崎原爆の記録』(東京図書出版会、2007年)の存在を知った。この著者も大村海軍病院長として被爆者の治療に尽力し、壊滅した長崎医大再建を目指した医師であって、本書によってわたくしの視野をさらに広げることができた。
 井上さんは、「父と暮せば」のあと、沖縄戦についての戯曲「木の上の軍隊」を、2010年7月上演を目指して準備していたのに、4月に亡くなった。これは、蓬来竜太氏が脚本を完成させて、2013年4月に公演された。長崎を舞台に「母と暮せば」を作りたいと考えていた井上さんの遺志を聞いた山田監督が実現させたのが、今回の映画だった。これは間違いなく山田監督の不滅の映画なのだが、それと同時に、井上さんが目指した3部作の画竜点睛にもなっている。

2015 118J 武力によらない平和の実現を目指して
―世界平和アピール七人委員会創立60年に際して―

2015年12月20日
アピール WP7 No. 118J
2015年12月20日
世界平和アピール七人委員会
武者小路公秀 土山秀夫 大石芳野 小沼通二 池内了 池辺晋一郎 髙村薫

 世界平和アピール七人委員会は、下中弥三郎 植村環 茅誠司 上代たの 平塚らいてう 前田多門 湯川秀樹の7名によって60年前の1955年11月11日に結成され、この日に「国連第10回総会に向けてのアピール」を発表し、国連と各国首脳に送付した。これは、その4か月前の7月9日に湯川も参加して発表されたラッセル・アインシュタイン宣言を受け止め、国家を単位とする国連を超えた世界秩序の実現に向けて国連改革・発展を呼びかけるものであった。
 それ以来、委員を務めた者は31名を数え、人道主義と平和主義に基づき不偏不党の立場から、世界の一人ひとりが恐怖と欠乏なく平和に生存できる社会の実現を目指して発表してきた国内外へのアピールは118件に及び、2004年以降は毎年国内各地で講演会を開催してきた。私たちのこれまでの主張には、今日でも繰り返したい内容が積み上げられている。

 今日、世界は安定を欠き、中東では、ヨーロッパ諸国による植民地支配の残渣が解消されることなく、長年の被圧迫者の不満が噴出し、関係者の利害が錯綜している。その中で大国による紛争地域への利己的な武器供与を含む行動が続き、国家と非国家によるもつれあいの破壊活動が相次いで、世界各地に恐怖と憎悪が広がっている。報復の連鎖は、恐怖と無関係に生きることができる安全・平和な世界につながる道ではない。一方、東アジアでは、日本の戦争責任について、いまなお共通の歴史認識をもつに至らず、冷戦の終結は遅れたままで、国家間の真摯な対話が成り立っていない。
 しかし、世界は時代と共に次々に変革を重ねてきたのであって、現在の不安定な状況が、いつまでも継続することはありえないと考える。変化の兆しを見逃すことなくとらえるためには、歴史を踏まえて、未来を見通していかなければならない。

 第二次世界大戦から70年経過した今日、日本では、国民に誠実に説明して納得を求めることなく、日本国憲法も国会も無視し、主権者の国民の意向と無関係に、まず外国への約束を重ねて既成事実をつくる政治が強行されるという異常事態が続いている。
 世界の中で、日本と日本人は、日本国憲法、そして国連憲章の基本理念である“国際紛争を平和的手段によって解決する”姿勢を堅持すべきであって、特定国への過度の依存と癒着を解消し、自立することが必要である。日本は“武力による威嚇または武力行使”を放棄し、交戦権を認めていないのだから、全世界から信頼される道を歩み、恐怖のない安全な世界の樹立に向けて主導的に貢献するために有利な立場に立っているはずである。そのためにも日本は、人口激減が進行する中で本来実現不可能な軍備増強、外交軽視路線を続けることを速やかに転換すべきである。
 日本は、近隣諸国との間で、科学技術、教育、文化、スポーツ、経済などの協力・交流を強め、相互理解を増進することを積極的に進めて、政治の世界における不信関係、敵対関係を速やかに解消させるために貢献することが必要である。国民の多数が自ら考え続け、発言し、行動していけば、アジアの平和は実現できると私たちは信じている。

 戦争は最大の環境破壊であり、いかなる戦争も非人道的である。安心して平和の中で生きていける世界は現実の目標であるが、願望だけでは実現できない。私たち一人ひとりが具体的に一歩ずつ歩みを進め、できるところから基盤を拡大していくべきである。
 我々七人委員会は、創立60年の機会に、武力に依存しない平和な世界の実現を目指してこれからも努力を続けていくことをあらためて宣言する。

PDFアピール文→ 118j.pdf

アピール「武力によらない平和の実現を目指して ―世界平和アピール七人委員会創立60年に際して―」を発表

2015年12月20日

世界平和アピール七人委員会は、2015年12月20日、「武力によらない平和の実現を目指して ―世界平和アピール七人委員会創立60年に際して―」と題するアピールを発表しました。

アピール「武力によらない平和の実現を目指して ―世界平和アピール七人委員会創立60年に際して―」

今月のことばNo.20

2015年12月19日

今、メディアに求めたいこと

土山 秀夫

 2015年9月19日未明の国会において、集団的自衛権行使容認を含む安全保障関連法が成立した。毎日新聞によるその後の世論調査(10月7,8日に実施)では、「安保関連法を評価しない」とする人は57%にも上り、それ以前の批判的な世論傾向は少しも変わっていない。
 にもかかわらず、安保関連法成立後のメディアの世界では、奇妙に共通した現象が見られるようになった。政府の御用新聞かと疑われる産経、読売の両紙にあっては、希望が達成できたのだから当然だったに違いない。だがそれ以外の各紙、中でも筆法鋭く法案の危険性を指摘し、問題点を追及してきた毎日、朝日、東京を始め、多くの地方紙までもがパタリと安保関連法に関する記事を掲載しなくなったことだ。
 関連法が成立してしまったのだからあれこれ言っても仕方がない、或いは民意の試金石と見なされる来年夏の参議院選挙前にキャンペーンを張ればいい、あまりいつまでも批判を続ければ、読者がうんざりして購読者数に響きはしないか、などといった思惑が社の幹部に働いた結果ではないかと考えられる。そうした点は筆者としても分からないではない。
 しかし、である。今だからこそ、安保関連法が日本の今後の命運を決定的に歪め、先の大戦で得たはずの教訓を台無しにしかねないことを、メディアは警鐘を鳴らし続ける使命を担っているのではないだろうか。そう思わせるほど、国会論議を通じて知り得た憲法無視の政府の無責任さ、法案の具体例に見られる辻褄(つじつま)の合わない釈明の数々、米国の補完勢力として、自衛隊員のリスクを口にしない後方支援の実態等々、国民にとっては説明の積み残しはまだまだ残されたままだ。これらの疑問点に対して、メディアはキチンと検証し、総括して読者に提供して欲しいとの声は決して少なくない。
 筆者がこうしたことにこだわるのには理由がある。満州事変から日中戦争、さらには太平洋戦争に至る間、民意の推移を肌で感じた筆者は、一般の民意というものがいかに移ろいやすいかを知っているつもりだからである。かつての日本は議会政治の弱体化と反比例して軍部の台頭を招き、経済的行き詰まりを打開する手段として、”満蒙開拓”という名の侵略へとつながる路線を選んだ。そして日本によるかいらい政権の「満州国」に対する国際連盟の勧告を拒み、次第に国際的孤立へと追い込まれた。 ところが国際連盟からの脱退は国民の「快哉(かいさい)」の声によって迎えられ、熱狂的な軍国主義下で育てられた多くの国民は、「もっとやれ、もっとやれ」とばかり、冷静な平和的手段や非戦の声をかきけして行ったのだ。
 ラジオ、雑誌を含むメディア全般への言論統制、自社の生き残りを図るための自主規制、思想犯を主たる対象とした特別高等警察(特高)の新設などが相次いだ。治安維持法は当初こそ国家転覆を目論(もくろ)む犯罪者の取り締まりを目的としたものの、その後の改正で共産主義者、社会主義者、新興宗教指導者、戦争末期には自由主義者、民主主義者、さらには政府批判を行った者まで対象とするに至り、目ぼしい人物に対しては、”予防拘束”という信じ難い手段によって言論を封じたのが70年前までの実態であったことを忘れてはならない。
 来年からは選挙権が18歳年齢まで引き下げられる。専らインターネット情報に頼りやすい人たちの中には、一刀両断的な過激なナショナリズムに染まる可能性も十分に考えられる。これら若い人たちへの啓蒙もためにも、また、今は安保法制への根強い危機感によって廃案を目指している国民の意識を風化させないためにも、空白期間をメディアの継続的報道(たとえ狭いスペースであったとしても)によって、ぜひ活用して欲しいものである。

(「NPO法人ピースデポ」発行「核兵器・核実験モニター」第484号(2015年11月15日)から許可を受けて転載)