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今月のことばNo.30

2016年10月12日

沖縄 ことばを失うこの一か月

大石芳野

 言葉を失う…という言い方があるが、甘えないでちゃんと表現しなくてはと思う。けれど、どう言葉に表したら自分の気持ちを伝えられるのか途方に暮れるときがある。まさにいま、私はそう感じながら廊下を行き来して言葉を見つけようとしている。こうした気持ちに陥っているのは、沖縄の人たちが短期間のうちに見舞われた事態を考えると、単にヒドイ!というだけではすまない。沖縄ばかりでなく私を含めた日本全体に深く関係していると思うからだ。
 先ず、「辺野古違法確認訴訟」の判決が三権分立ではないことだ。多くの人たちが苦言を述べているように、福岡高裁那覇支部の多見谷寿郎裁判長はソウル、台北から沖縄の距離を挙げて米海兵隊が駐留する地理的な優位を挙げ(九州各県との距離には触れないで)、辺野古が唯一だとの判決を下した。唯一の根拠は述べずに県側の主張を完全に退けたのだった。まるで、沖縄県民は日米同盟の犠牲になって当然だと言わんばかりだ。
 翁長県知事は判決内容に「大変あぜんとしている」と強い怒りを述べた。判決は、「国が説明する国防・外交の必要性について、具体的に不合理な点がない限り県は尊重すべきだ」と国が県を下僕とするかのような断言をした。司法の中立性の失墜は住民の生命や人権、生活がないがしろにされ、民主主義を破壊することに繋がりかねない。沖縄の問題だと思いきや、実は私たちの身近な問題でもある。この不安と怒りをどう言い現わしたらいいのか。
 こう憂えていた矢先、米軍攻撃機AV8Bハリアーが復帰後19回目の事故を起こした。国頭村辺戸岬沖に墜落したが、事故原因が解明されていない。これで安全とは言えないだろうに10月7日に飛行の再開となった。飛行訓練に関する説明さえもないのだから住民の憤りと悔しさはいかばかりだろうか。
 さらに追い打ちをかけるように、基地と振興策はリンクすると言ってひんしゅくを買った鶴保庸介沖縄担当相が、今度は選挙と振興策のリンクを発言した。地元紙は「目の前にニンジンをぶら下げて選挙応援を促すというのは下品極まりなく、振興費をポケットマネーのように扱うのも担当大臣としての適性を欠く。(中略)鶴保氏には、沖縄振興の旗振りにふさわしい品性と慎重な言動を求める」と報じている。
 9月~10月の1か月間だけでも沖縄で起こった事態は日本人として恥ずかしい限りのことだ。なぜ今もって沖縄はこうも虐げられたような扱いを受けているのだろうか。距離的に遠いからなのか、それとも、米軍に「戦利品」として27年間も統治されたからなのか、それとも薩摩藩に侵略されて以来の差別なのだろうか。
 沖縄が抱えているさまざまな難問や苦悩は結局、私たちにも降りかかっていることなのだが、多くが他人事だと高をくくっている。けれど安穏とそうこうしているうちに、民主主義は崩れかねない。崩れる時の速さは台風並みだ。

世界平和アピール七人委員会2016年講演会

2016年9月17日

沖縄は日本なのか ―<平和>を軸として考える―

2016年11月19日(土) 午後1時30分 ~ 5時
法政大学 市ケ谷キャンパス 外濠校舎405号室
入場無料、事前申し込み不要

<プログラム>
●世界平和アピール7人委員会について
小沼通二(世界平和アピール七人委員会委員・事務局長)
【講演】
●沖縄戦の傷は今も―写真を見ながら
大石芳野(写真家、世界平和アピール七人委員会委員)
●沖縄をイメージすることの難しさ
武者小路公秀(国際政治、世界平和アピール七人委員会委員)
●異化する沖縄
髙村 薫(作家、世界平和アピール七人委員会委員)
●私たちの問題としての「沖縄問題」
杉田敦(政治学、法政大学法学部教授)
●パネル討論と質疑
司会:小沼通二(物理学、世界平和アピール七人委員会委員)
会場案内 法政大学 市ヶ谷キャンパス(東京都千代田区富士見2-17-1)

2016年講演会

今月のことばNo.29

2016年9月9日

憲法こそ抑止力

池辺晋一郎

 「世田谷・九条の会ニュース」(2016年4月発行)に、1936年生まれの区内在住の方が寄稿している──43年に国民学校に入学した。教育の目的は皇国民の錬成で、男子の卒業生には直後に兵士になる道が用意されていた。45年4月からは学徒動員が行われ、教育は放棄された。敗戦後、突然先生たちの言うことが変わった。アメリカは素晴らしい国で、日本はとんでもなく悪い国だ、と。ラジオも新聞も180度変わった。この時から「大人は信用できない」と思い定め、大事なことは自分で考え、判断することに決め、そのように生きてきた。そのなかで嬉しかったのは「これからは学校も民主主義になる」ということ。子どもの意見を授業や学校行事に生かそうとしてくれたこと。そして「もう戦争はないんだ」ということだった──
 戦争を知らない政治家が政治を牛耳っている、とこの4月に99歳で亡くなった評論家・秋山ちえ子さんが嘆いていたが、まさにその通りだ。集団的自衛権行使を標榜し、戦争ができる国にしようとしている現下の為政者たちの言い分はこうだ──戦争放棄と言ったって、今の世界を見渡せば暗雲がたちこめている。相手が仕掛けてきたらどうするんだ?
 もし戦争当事者になったとしても、世界には当事国以外の国が常に100以上ある。どちらの言い分が正しいかを、それらの国々が判断してくれる。すなわち国際的信義によって守られる。これは憲法前文に書いてある、とノーベル物理学賞受賞者である益川敏英さんは言う。
 「抑止力」という考えかたは前世紀のものだ。現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪れたオバマ氏は、核兵器のない世界を目指そうとかねてから発言しているが、いつの日かそれが実現しなければ、人類が滅亡に至ることは必至なのだ。そういう中にあって、戦争を、軍備を放棄している日本の憲法は、普遍的な抑止力をまさに示していると言わなければならない。
 戦争の悲惨さを真剣に想い、日本の憲法を「絵に描いた平和」ではなく、現実の強固な「抑止力」として堅持し、世界により強く発信することこそが今最も大切なことだ、と考えるのである。

今月のことばNo.28

2016年8月1日

陸上自衛隊のエンブレム

池内 了

 皆さんは、陸上自衛隊が新たに採用したエンブレムのデザインをご存じだろうか?陸上自衛隊は、これまで人に見立てた日本列島を手のひらで包むシンボルマークを使っていたのだが、今回初めてエンブレムを公式採用したのだ。実は私も知らずにいたのだが、友人から注意されて慌ててインターネットで調べた次第である(インターネットで「陸上自衛隊、エンブレム」http://www.mod.go.jp/gsdf/about/emblem/で検索されればすぐに出てくるから、まずご覧あれ)。
 東京オリンピックのエンブレム騒ぎで知られるようになったが、エンブレムとは団体やイベントの実体や目的を象徴的に表現したもので、それを見ればどこの集団が何を表しているかがわかるよう工夫されている。ロゴマークのようなものだが、歴史的な由緒があることも多い。制服やセーターにつける学校の紋章、洋服の襟につける会社のバッジ、キリスト教の十字架やイスラム教の三日月や仏教の卍の図像が思い出されるが、いずれもそこに集団や催しの精神的目標のようなものが隠喩されていることが多い。また、それに関連する人々の結束を図るとともに、見る人にある種の尊崇の念を覚えさせることもエンブレムが持つ役割かもしれない。
 と気楽に考えていたのだが、陸上自衛隊が5月末に新たに作成したというエンブレムを見て一瞬ぎょっとした。ご覧になればわかる通り、まず目につくのは抜き身の日本刀とその鞘がクロスして真ん中に置かれており、それが日の丸を支えているデザインとなっているからだ。露骨に日本刀で象徴される武力で日本を支えるとの意図が明確に読み取れるのである。その日本刀が抜き身となっていることは、常に臨戦体制にあることを意味しており、日本が軍事国家であることを内外に宣言しているかのようである。実際、「エンブレムの概要」には陸上自衛隊が「国土防衛の最後の砦」であると書かれている。
 デザインの下の方を見れば「桜星」(桜の花びらが五角形の星マークになっている)があって、雉の翼(羽を都道府県の数の47枚並べている)は「焼け野の雉、夜の鶴」という諺(野を焼かれた雉は、我が身を忘れて子を救う)に因むらしい。復古調極まりない。全般に明治以来の古びた軍国意識が感じられることは否めず、陸上自衛隊は帝国陸軍として復活したかの感がある。
 陸上自衛隊の隊員はこのエンブレムの徽章を制服の襟につけるのだが、血塗られた日本刀は南京虐殺の蛮行を思い起こさせ、日本が先のアジア太平洋戦争で犯した戦争犯罪について何ら反省していないどころか、むしろ誇るかのようで、恥ずかしいとしか言いようがない。
 そう思って防衛装備庁のロゴマークを調べると、地球をぐるりと取り巻く輪が3本引かれ、一番上に戦闘機、真ん中に戦車、一番下に軍艦を思わせるイラストが描かれている。これも世界に雄飛する「空陸海の日本の三軍」というイメージが想起され、防衛省が安倍路線に乗って憲法改悪を先取りしていることがよくわかる。
 たかがエンブレムと言うなかれ、それによって人々に醸成される軍事化は当然という感覚が恐いのである。

今月のことばNo.27

2016年7月1日

イギリスの騒動に思う

髙村薫

 先月、親しい友人たちと珍しくプライベートな旅行に出かけたのだが、みな現役の仕事人間ばかり。出発当日はイギリスの国民投票の開票日と重なり、朝から旅路そっちのけでスマートホンの速報に見入った末に、昼ごろBBCが離脱派の優勢を伝えたときには、みな呆然自失したものだった。
 イギリスがEUから離脱するなんて――――。よもやほんとうに起きるとは思わなかったことが起きたとき、イギリスの外ではこうして多くの人がただただ絶句した。そして、最初の衝撃が去ったいまは、この先世界が向かってゆくだろう未来の暗い予感に押しやられながら、誰もが為すすべもなく当面の混乱を見守っているのである。
 EUの一員でいることのメリットとデメリットを冷静に秤にかけたなら、離脱という答えが出るはずもないが、それでも現実の国民感情はきれいに二分され、最終的に離脱が残留を上回る。これを「衆愚」やポピュリズムと呼ぶのはたやすいけれども、そうした間尺に合わない国民感情の噴出は、いまやイギリスに限った話ではない。移民の増大による社会不安と、EU域内の種々の規制への不満は、フランスの国民戦線のような極右勢力の伸張というかたちで顕在化しており、それが域内各地の独立運動の機運にも火をつけているのだ。
 そこには弁舌巧みに人心を扇動する政治家や指導者がおり、それに躍る人びとが従来の常識では考えられない極端な結果を生み出してゆくのだが、それはアメリカ大統領選挙の共和党候補トランプ氏や、フィリピンの新大統領ドゥテルテ氏、そしていくらかは日本の安倍政権も同様だろう。そこで否定され、排斥されるのは既存の権力構造とエスタブリッシュメントであり、人類全体を視野に入れた思考や理性、忍耐は退場させられる。
 私たち日本人をふくめ、2017年の世界はこうして確実に冷静さと忍耐を失いつつあるのだが、その根底には経済の低迷と民主主義の行き詰まりがあり、その結果としての生活のしにくさや将来不安、そして難民問題に代表される社会の不安定化があると言われる。そしていずれの問題も、有効な解決策が見つからないまま、企業家や投資家は当面の利益の確保に走り、抑圧された生活者たちのなかに、不満のはけ口を求めてポピュリストの扇動に熱狂し、足下の不平等をうみだしている社会の転覆に喜んで荷担する者が増えているのである。
 しかも、こうした扇動ではおおっぴらに嘘が語られる。先般のイギリスの国民投票でも、離脱の旗を振った元ロンドン市長らが離脱の根拠としてきたEUの分担金について、その金額自体が誇張だったことを選挙直後にあっさり認めるという無責任ぶりだった。
 しかし古今東西、政治とはそもそも、そんなものだったのだろう。為政者は己が欲望のために堂々と嘘を語り、その嘘に躍る民衆がおり、気がつけば誰も想像もしなかった道へと踏み出している―――世界の歴史はこうしてつくられてきたのかもしれない。歴史を動かすのは高邁な意志や理想ではなく、欲望に躍ったり躍らされたりする人間の本態なのかもしれない。イギリスの騒動を眺めながら、つくづくそんな思いに駆られたことである。
 賢くありたいと願いつつ、けっしてそうはなれないのが人間であるなら、せめて、何事においても慎重でありたいと思う。