七人委員会の誕生
―七人委員会の歴史から 1―
平凡社の創設者下中弥三郎は、1948年創設の世界連邦建設同盟に1952年に参加し、1954年に理事長に選ばれたが、天衣無縫な運営に批判があった。そこで平和を脅かす問題に対し、組織の手続きにとらわれず、機を失せずに「日本の良識の声」を自由に発表したいと思い始め、賛同者候補の人選を進めた。候補者への参加要請は、下中の意を受けた日高一輝(日本バートランド・ラッセル協会常任理事)が当たった。
1955年9月に、湯川秀樹(京都大学基礎物理学研究所長)、茅誠司(日本学術会議会長)、上代たの(日本婦人平和協会会長)、平塚らいてう(日本婦人団体連合会会長)の順(上代と平塚の順序は逆という記録もある)に交渉し、賛同を得た。続いて、植村環(日本YWCA会長)、前田多門(ユネスコ日本委員会理事長)の参加が決まり、この七人で発言していくことにした。日高は事務局長に就任した。
この年は国連発足10周年で、4月にはバンドンでアジア・アフリカ会議が開催され、7月には、前年のビキニ水爆実験による第五福竜丸などの被曝事件を受けて、湯川も参加したラッセル・アインシュタイン宣言が発表された。
11月11日に世界平和アピール七人委員会が発足した。この日に発表した「国連第十回総会に向けてのアピール」は、日本国憲法の前文を踏まえ、ラッセル・アインシュタイン宣言が述べた核兵器による人類絶滅の危険性と戦争絶滅の必要性を訴え、国連にすべての未加盟国を加盟させて世界連邦に発展させ、1957年に国連総会と併行して世界人民会議の招集を求めるものだった。
このアピールは翌12日に国連事務総長と国連総会議長に送付され、コピーが世界81カ国の元首か首相と平和団体に送られ、国内では首相と衆参両院議長に届けられた。コピーが箱根のパール・下中記念館に残されている。
(『世界に平和アピールを発し続けて―七人委員会46年の歩み』(平凡社、2002)、『下中弥三郎事典』(平凡社、1965)、平塚らいてう『続 原始女性は太陽であった―自伝(戦後編)』(大月書店、1972)、当時の新聞を参考にした。第1回アピールはhttps://worldpeace7.jp/modules/pico/index.php?content_id=116、ラッセル・アインシュタイン宣言はhttp://www.pugwashjapan.jp/r_e.htmlなどにある。)(2014年11月1日)