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今月のことばNo.7

2015年4月3日

戦後70年目の『八紘一宇』

髙村 薫

 先日、参議院予算委員会の質疑で、政権与党の女性議員が、かの「八紘一宇」を日本人が建国以来大切にしてきた価値観だとして堂々と取り上げた由。私などは何かの間違いだろうと思い、YouTubeで実際の中継映像を確認して顎が外れそうになったが、映像を見る限り、当の委員会は終始淡々としたもので、野党席からも怒号一つ上がっていなかった。数年前なら、即座に委員会は非難の嵐になり、政権与党は青ざめ、メディアの糾弾があり、内閣不信任案が提出されて可決されていた事態だろうに。平成27年の日本の国会の、なんというありさまか。
 いつの世も世代間のギャップはあるけれども、個々の人生観や生活感覚などは差があって当たり前だし、互いにぼやいてすむ程度の話であれば、ことさら違和感を訴える必要もない。しかしながら国のかたちや歴史や政治、公共の精神など、世代間で認識が大きく違っていては決定的に不都合がある事柄については、その限りではない。
 現に「八紘一宇」なる言葉は、おおもとの意味が何であれ、戦前の日本が大陸侵攻のスローガンにした理念だったという、その一点ゆえに、戦後の日本では完全な禁忌であった言葉ではないか。それを、国会という公の場で、国民の合意もなしに一国会議員が突然取り上げた上に、あろうことかグローバル世界で日本が取るべき理想のスタンスだと言い放ったのである。にわかには信じがたい、とてつもない化けものがこの国に出現しているとでも言おうか。
 そして何より深刻なのは、その場に居合わせた与野党の議員も、傍聴席のメディアも有権者も、化けものだと気づいた気配がないことである。これについて、知り合いの某全国紙の編集委員は、自社の政治部記者たちの感度の低さ、認識の甘さはもはや致命的だと嘆いていたが、ひょっとしたら彼らは化けものと気づかなかったのではなく、初めから化けものとは思っていないということではないだろうか。「八紘一宇」が禁忌である戦後の歴史認識そのものに、大きな意味を見出していないということではないだろうか。仮にそうだとすると、世代間の認識のギャップはもはや何をもってしても埋められない修復不可能な断絶となる以外にない。私の世代にとって、戦後70年の歴史認識はそれほどに堅固なものだということである。これだけはいかなる修正の余地もないし、妥協の余地もない。
 戦後70年のこの国の常識が、国会で公に覆され、無化されてゆく。4月1日付の朝日新聞オピニオン面で、フランスの民主主義の研究者ピエール・ロザンバロンは、現代の政党はもはやいかなる社会の声をも代表しない、それどころか社会に対して政府を代表していると喝破していた。社会の多様化が代表制民主主義を困難にしているというその主張には一理あると思う。とまれ、ロザンバロン流に言えば、かの女性議員は政府を代表して私たち有権者に「八紘一宇」を掲げてみせたということであり、私たちの社会は黙ってそれを承認したということになろう。
言葉を失って天を仰いでいるのが私だけでないことを祈りたい。

アピール『「イスラム国」と有志連合の武力対決の中で日本が目指すべき道』を発表

2015年3月21日

世界平和アピール七人委員会は、2015年3月21日、『「イスラム国」と有志連合の武力対決の中で日本が目指すべき道』と題するアピールを発表し、安倍首相と岸田外相に送りました。

アピール『「イスラム国」と有志連合の武力対決の中で日本が目指すべき道』

今月のことばNo.6

2015年2月25日

「軍学共同」が進みはじめている

池内 了

最近、私が熱を入れて取り組んでいる課題は「軍学共同」に関わることである。安倍政権になって特に加速的に進みはじめたこともあって、広く反対運動を組織する暇もないうちに既成事実がつくられていく気配が濃厚で、実は少し焦っている。

発端は、2013年12月に閣議決定された「平成26年度防衛大綱」に、「大学や研究機関との連携の充実により、防衛にも応用可能な民生技術(デュアルユース技術)の積極的な活用に努める」と書かれたことである。いかなる科学・技術の成果も民生利用と軍事利用の両面に利用可能(デュアルユース)であることは、軍事目的で開発されたさまざまな技術が民生利用されて(いわゆるスピンオフして)社会に広く行き渡っていることを見れば明らかだろう。しかし、アジア太平洋戦争中に軍事研究に勤(いそ)しんだ歴史を反省して、軍事目的のための研究を行なわないことを日本学術会議が1950年と1967年に二度まで決議してきたように、日本では公式には軍学共同が行われてこなかった。これは世界的に見ても珍しいことで、憲法第9条と並んで誇るべき伝統であったと言うべきなのだが、それが覆されそうになっているのだ。

既に軍学共同が具体的に行われているのが防衛省技術研究本部と大学・研究機関との間で行われている「共同研究」で、2006年に開始されて2012年までは1年に1件程度であったのが、2013年に4件、2014年には7件と急増している。そして実際に、航空宇宙研究開発機構との「宇宙空間での2波長赤外線センサの実証的研究」が2014年度から自衛隊の装備として予算化され、2015年には48億円が計上されているのである。それだけでなく、情報通信研究機構との共同研究「サイバーレンジの構築等に関する研究」も自衛隊の予算書に書かれているのだ。

さらに、防衛省が2015年から「安全保障技術研究推進制度」と名付けた競争的資金制度を発足させ、軍事利用できる技術開発を目的とした大学や研究機関の研究者への研究費の支給を決定した。研究費不足に悩む研究者が多い状況につけ込んでの制度と言えるだろう。このような資金が大学に入るようになると、公開できない秘密研究が堂々と行われるようになるだけでなく、軍事研究に動員される学生への悪影響が心配される。

何より、私は科学への市民の信頼感が薄れていくことを強く危惧している。

今月のことばNo.5

2015年1月1日

“長崎方式”の平和宣言

土山秀夫

毎年8月9日、長崎市長は原爆犠牲者への追悼平和祈念式典で、長崎平和宣言を国の内外に向けて発信する。「あの平和宣言文はどうやって作成されているのか」との質問をしばしば受ける。“長崎方式”と呼ばれる宣言文の起草委員会は、市民各層の意見を広く集約できるよう、被爆者、学識経験者、報道関係者、家庭の主婦、最近では学生も含む約20名内外の委員から成る。

原則として委員会は3回開かれる。第1回の前に、各委員に今年の宣言にぜひ入れるべきと思われるテーマ(3点以上)を書き出してもらい、予めその理由を市側に知らせて置く。第1回の委員会では回答集に基づいて、委員が1人ずつ自分の考えを説明し、同時に全体的な討論を行う。第2回の委員会では市事務局が第1回目の意見を集約し、文章化した叩き台を配布する。各委員はそれらについての改正すべき点や、限られた字数内にどれだけインパクトが与えられるかについて具体的に議論を深める。

最後の第3回目では座長である市長も自分の見解を述べ、宣言はまとめの段階に入る。スンナリと大方の意見が一致するときは、それでよしとする場合もある。しかしテーマによって委員たちの見解が真っ二つに分かれたり、また市長と多数の委員との意見がどうしても折り合わないことがある。例えば1996年の国際司法裁判所による勧告的意見に対する評価、2011年の東京電力福島第一原発事故に関連して今後の原発の在るべき姿をめぐる見解、2014年の集団的自衛権の行使容認の閣議決定に対する厳しい批判などがあげられよう。

この種の対立点を解きほぐすため、後日、市長と約3名の委員より成る小委員会を持ち、更に議論を詰めて最終案へと導くのがふつうである。 朗読時間としては7〜8分の宣言に過ぎないが、そこにはできるだけ市民の多様な意見を反映させようとする、各委員なりの信念のぶっつかり合いがあることを知っていただければ幸いである。

長崎の平和宣言をここに取り上げたのは、もう1つ別の理由がある。それは私たち世界平和アピール七人委員会の発するアピールと、或る面では共通した性格を持つ点だ。社会により良いものを生み出すための提言として、民主的な意見の交換と取りまとめを通じ、知力と情熱を注ぐ意味において両者に差異はない。

今月のことばNo.4

2014年12月15日

ハンマーを持つ人

池辺晋一郎

先日、アメリカのジャーナリストにして映画監督ジャン・ユンカーマン氏の発言に、新聞紙上で接した。
1952年ミルウォーキー生まれ。生後まもなく、1年間くらいらしいが神奈川県葉山に住み、のちに慶応義塾志木高校で学んだという人である。
その後スタンフォード大学、ウィスコンシン大学に学んだ。ベトナム戦争時代に学生生活を送り、反戦や徴兵制反対運動に身を投じた。
長じて、まず88年に映画「劫火」(ごうか)を撮る。
90年には「老人と海」、92年「夢窓──庭との語らい」でエミー賞を受ける。
そして「映画・日本国憲法」を撮ったのは2005年。

そのユンカーマン氏の発言──集団的自衛権は、すなわち交戦権である。
平和憲法を持つ日本は世界の尊敬を集める立場だったのに、これを捨ててアメリカに従うとは…。
安倍首相は日本を、戦争ができる「普通」の国にしようとしている。
朝鮮半島、ベトナム、アフガニスタン、イラク…どこも戦争の後遺症に苦しんでいる。武力では何も解決できないことは、歴史が証明している。
そして、アメリカの格言を紹介している──ハンマーを持つ人にはすべてが釘に見える。
このことを初めて紹介したときは、政府の閣議決定が間近に迫っているときだった。
しかし政府は、反対の声の高まりにもかかわらず、あっさりと、集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈変更を決めてしまった。

自民党内にも、これに反対するハト派がいたはずなのに、ここに至ってこのハトは全く啼かない。
さらに呆れるのは公明党だ。「平和の党」を標榜していたのに、その理念を捨てて、連立政権の椅子に固執したわけ。
公明党は安倍政権のブレーキ役だと見做していたが、何ともだらしない、見苦しい変節だ。
「必要最小限」「歯止めがある」「容認は限定的」などということばは、すべて苦し紛れ。弁解にしか聞こえない。
いったい、現行憲法をどう読めば、そんな解釈が可能になるのか…。中学や高校の国語の文章解釈試験で答えたら、バツがつきます。
毅然・明解な憲法条文に比して、前記の弁解は曖昧。不明確。
「必要最小限」か「やや小」なのか、誰が決める?
為政者が「歯止め」と言えばそうなるのか?
「限定」の範囲を越えるか越えないかを判断するのは、誰?
厳格に設けられている堰を、いっぺん切ったらどういうことになるか。流れ出す水を、都合よく再び堰き止めるなんてこと、できる?
今、日本の政府は、厳格な堰を切ろうとしているのだ。

僕は、憲法前文の中の「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」という一節に、いつも感動する。
「名誉ある地位」という言いかたのすばらしさ!
その名誉を捨てようというのだ。ユンカーマン監督の言うとおりである。
ハンマーを持つ人になってしまう日本…情けない限り。

(「うたごえ新聞」2385号、2014年7月14日付掲載、「空を見てますか」925回を修正、転載しました。ユンカーマン氏の発言は、朝日新聞2014年6月24日に掲載されています。)